巻貝死すあまたの夢を巻きのこし
三橋鷹女
一句を書くことは 一片の鱗の剥脱である
一片の鱗の剥脱は 生きてゐることの証だと思ふ一片づつ一片づつ剥脱して全身赤裸となる日の為に
『生きて 書け――』と心を励ます
三橋鷹女の第四句集『羊歯地獄』の自序の一節である。俳句を書くとき、俳句という言語表現と真正面から格闘しなければならないとき、いつも畏怖と励ましをくれる言葉だ。俳句を書くことに慣れてしまうと、それらしい韻律の小ぎれいな句がたくさんできる。いやしかしそれらのどこに詩の発見が、詩の飛躍が、あるいは批評精神があるだろうか。「一片の鱗の剥脱」と言えるほどの心の揺さぶりがあるだろうか。そうしてできた句の九割九分は、句会に出して点が入ったり入らなかったりして、それで終わりだ。あまたの言葉の骸の上に自身の納得できるものが少しでもあることを期待して、書き続けるしかないのかもしれない。
掲句は第五句集『橅』より。『橅』刊行の二年後に鷹女は亡くなるが、掲句にはそれを予期しているかのような哀悼の凪が広がっている。巻貝に巻かれなかった「夢」は波打ち際を遠く離れ、今も沖を漂っているのだろうか。次こそは誰かの「夢」になれるだろうか。鷹女の夢の句といえば、第一句集『向日葵』にある〈みんな夢雪割草が咲いたのね〉も有名だ。こちらは夢の中で夢であることを認識し、これから現実へ生まれ落ちる「生前の夢」と言える。一方で掲句は現実にいながらもはや現実を抜け出し、夢のあとを追おうとする「死後の夢」である。巻貝の螺旋を輪廻と受け取ることもできるだろう。汀の砂中で死せるものは、ふたたび山野の小さな花となれるだろうか。情愛と苦悩の自意識の果てに、眼前にあるのは凪ぎ渡るまぼろしの海のひかりだけだ。
(古田秀)
【執筆者プロフィール】
古田秀(ふるた・しゅう)
1990年北海道札幌市生まれ
2020年「樸」入会、以降恩田侑布子に師事
2022年全国俳誌協会第4回新人賞受賞
2024年第3回鈴木六林男賞、北斗賞受賞
2025年第2回鱗-kokera-賞受賞
【2025年9月のハイクノミカタ】
〔9月1日〕霧まとひをりぬ男も泣きやすし 清水径子
〔9月2日〕冷蔵庫どうし相撲をとりなさい 石田柊馬
〔9月3日〕葛の葉を黙読の目が追ひかける 鴇田智哉
〔9月4日〕職捨つる九月の海が股の下 黒岩徳将
〔9月5日〕ありのみの一糸まとはぬ甘さかな 松村史基
〔9月6日〕コスモスの風ぐせつけしまま生けて 和田華凛
〔9月7日〕秋や秋や晴れて出ているぼく恐い 平田修
〔9月8日〕戀の數ほど新米を零しけり 島田牙城
〔9月9日〕たましいも母の背鰭も簾越し 石部明
〔9月10日〕よそ行きをまだ脱がずゐる星月夜 西山ゆりこ
〔9月11日〕手をあげて此世の友は来りけり 三橋敏雄
〔9月12日〕目の合へば笑み返しけり秋の蛇 笹尾清一路
〔9月13日〕赤富士のやがて人語を許しけり 鈴木貞雄
〔9月14日〕星が生まれる魚が生まれるはやさかな 大石雄介
〔9月15日〕おやすみ
〔9月16日〕星のかわりに巡ってくれる 暮田真名
〔9月17日〕落栗やなにかと言へばすぐ谺 芝不器男
〔9月18日〕枝豆歯のない口で人の好いやつ 渥美清
〔9月19日〕月天心夜空を軽くしてをりぬ 涌羅由美
〔9月20日〕蜻蛉のわづかなちから指を去る しなだしん
〔9月21日〕五体ほど良く流れさくら見えて来た 平田修
〔9月22日〕虫の夜を眠る乳房を手ぐさにし 山口超心鬼
〔9月23日〕真夜中は幼稚園へとつづく紐 橋爪志保
〔9月24日〕秋の日が終る抽斗をしめるやうに 有馬朗人
【2025年8月のハイクノミカタ】
〔8月1日〕苺まづ口にしショートケーキかな 高濱年尾
〔8月2日〕どうどうと山雨が嬲る山紫陽花 長谷川かな女
〔8月3日〕我が霜におどろきながら四十九へ 平田修
〔8月4日〕熱砂駆け行くは恋する者ならん 三好曲
〔8月5日〕筆先の紫紺の果ての夜光虫 有瀬こうこ
〔8月6日〕思ひ出も金魚の水も蒼を帯びぬ 中村草田男
〔8月7日〕広島や卵食ふ時口ひらく 西東三鬼
〔8月8日〕汗の人ギユーツと眼つむりけり 京極杞陽
〔8月9日〕やはらかき土に出くはす螇蚸かな 遠藤容代
〔8月10日〕無職快晴のトンボ今日どこへ行こう 平田修
〔8月11日〕天上の恋をうらやみ星祭 高橋淡路女
〔8月12日〕離職者が荷をまとめたる夜の秋 川原風人
〔8月13日〕ここ迄来てしまつて急な手紙書いてゐる 尾崎放哉
〔8月14日〕涼しき灯すゞしけれども哀しき灯 久保田万太郎
〔8月15日〕冷汗もかき本当の汗もかく 後藤立夫
〔8月16日〕おやすみ
〔8月17日〕ここを梅とし淵の淵にて晴れている 平田修
〔8月18日〕嘘も厭さよならも厭ひぐらしも 坊城俊樹
〔8月19日〕修道女の眼鏡ぎんぶち蔦かづら 木内縉太
〔8月20日〕涼新た昨日の傘を返しにゆく 津川絵理子
〔8月21日〕楡も墓も想像されて戦ぎけり 澤好摩
〔8月22日〕ここも又好きな景色に秋の海 稲畑汀子
〔8月23日〕山よりの日は金色に今年米 成田千空
〔8月24日〕天に地に鶺鴒の尾の触れずあり 本間まどか
〔8月26日〕天高し吹いてをるともをらぬとも 若杉朋哉
〔8月27日〕桃食うて煙草を喫うて一人旅 星野立子
〔8月28日〕足浸す流れかなかなまたかなかな ふけとしこ
〔8月29日〕優曇華や昨日の如き熱の中 石田波郷
〔8月29日〕ゆく春や心に秘めて育つもの 松尾いはほ
〔8月30日〕【林檎の本#4】『 言の葉配色辞典』 (インプレス刊、2024年)