神々の目撃者
飯田冬眞(「磁石」編集長、「豈」同人)
あれは、神保町の街路樹が黄色く染まった頃の時期であったか。今から11年ほど前、俳句総合誌の編集長をしていた私は、伊藤伊那男氏の連載原稿を受け取るため、会社からタクシーを飛ばした。タクシーのナビに住所を打ち込ませて降ろされたのは、周恩来の碑のある公園であった。途方に暮れて銀漢亭に電話をかけると、ほどなくして前掛け姿の伊藤伊那男氏が小走りで迎えにきてくれた。セクシーな笑顔にして丁寧な挨拶。カリスマ俳人とは、清濁併せ持っているものだと思った。路地を歩きながら店に到着すると、マッチョでイケてる男性が、「わたくし、エロ本屋のおやじ、やってます」と名刺を差し出してきた。見るとその社名は、思春期の頃、大変お世話になった雑誌と同じ名前であった。
坂口安吾にあこがれ、井上光晴の文学伝習所に通うため、ススキノの飲食店でアルバイトをした高校時代。親の反対に合いながら、ほぼ、家出同然で東京の大学に進学。文学を学び、小説と詩の同人誌を渋谷の街で立ち上げた。紆余曲折のすえ、俳句文芸誌の編集に関わることになった。自分は、文学の根本は「生き抜く」ということにあると思っている。現代社会で生き抜いていくための「酸いも甘いも」が広がる空間が銀漢亭である。現実世界の「酸いも甘いも」は、俳句の世界に直結していた。店に足を踏み入れたあの日から、銀漢亭が俳句世界の縮図、いや、人間観察の宝庫となった。俳句はもちろんのこと、俳句を巡る社会の面白さを教えてくれたのも銀漢亭である。
銀漢亭というスリリングで居心地の良い空間を、俳句を通して知り合った方たちと共有したくて、今にして思えば、沢山の有名俳人を銀漢亭に誘い、ここでは述べられないような熱い夜を過ごしたこともある。たいていは俳句のパーティの2次会であるが。
20代の頃より俳句に親しんできた私ではあるが、会社の句会以外で、俳句を作るようになったのは、「湯島句会」が最初であった。当時の幹事役は川島秋葉男さん。まだ、結社「銀漢」が立ち上がる前で、沢山の結社の同人が集っていた。最終的に「湯島句会」は、百人を越える超結社句会となった。その句会のなかで、恋も生まれ、時には殴り合いの喧嘩もあり、様々な歴史的現場に立ち会った私にとって、銀漢亭は第二の青春であった。
結社「銀漢」の結成式の少し前に、私は俳句総合誌の編集長の任期を終えた。その後は、俳人の飯田冬眞として、銀漢亭に集う俳人達とさらに青春を謳歌することとなった。大いに飲み、食い、作句した。忘れもしない「湯島句会」の最終日。盛り上がりすぎて、路上で寝てしまった俳人もいた。衝撃的であった。
「湯島句会」解散後は「OH!句会」に参加し、昼間から日本酒を呷った。路上で大騒ぎをし、さんざんご近所にご迷惑をおかけしたと思う。お詫びもかねて、銀漢亭の隣の雑貨屋さんで毎回、一万円ぐらいの服や雑貨を購入した。雑貨屋の店主は無口であったが、「OH! つごもり句会」の際に買った、アンデス柄のアルパカの上着と「OH!花見句会」の際に買ったネパール産の緑のカバンは今もお気に入りである。
写真は隣の雑貨屋で買ったサマードレス2着。お二人の美女に進呈した。ちなみに右側のドレスは先日、部屋の整理をしていたときにくしゃくしゃに丸められた状態で発見された。妻に尋ねると「写真撮るっていうから着たけど、それ以来恥ずかしくて着てないわ」とのこと。小石さんも、もう捨てているだろうなあ。
銀漢亭とは、今思うと俳人たちが集う居酒屋というよりも、かくも熱狂的で人間臭いオリンポスの神々さながらの俳人たちが集う神殿であったのだ。
【執筆者プロフィール】
飯田冬眞(いいだ・とうま)
元「未来図」同人。後継誌「磁石」編集長。「豈」同人。第一句集『時効』