海鼠噛むことも別れも面倒な 遠山陽子【季語=海鼠(冬)】


海鼠噛むことも別れも面倒な

遠山陽子
(『高きに登る』)


 そろそろ忘年会のシーズンである。宴会が果てた後の駅の改札前では、別れを惜しむ人々が「じゃあね、じゃあね」と後退りしてぶつかってくる。三本締めですぱっと別れられないのも日本人の特徴である。別れを惜しむことは、親愛の情を示す態度という考え方が、世の中を面倒にさせている。

 吉田兼好の『徒然草』第32段では、訪問した家の主が客である自分を門の前まで送った後、すぐには門を閉めずに月を眺める振りなどをして、自分の後ろ姿が消えるまで佇んでいた話が記されている。その主の姿勢を風情のあるものとして讃えた。古文の授業で習い共感した方は多いであろう。現代では、美容院や洋服店、スナックなどの担当者が帰る際に見送りサービスをしてくれる場合がある。私が角を曲がる際に振り返ると、担当者はまだ店の前に立っており、再度お辞儀をしてくれる。そのたびに、『徒然草』第32段を思い出してしまう。

 私自身も日頃よく会う人でも別れ際は、名残惜しい気持ちを表すために手を振り言葉を重ねる。「今日はありがとう。楽しかった。また会いましょう」と。相手がそれに応えてくれると、本当に名残惜しくなってしまう。きっと、この別れ際の儀式の繰り返しにより友情や愛情は深まってゆくのだ。

 ところが最近の人々はとってもクールで、飲み会の途中で何の挨拶もなく消えたり、閉会の辞の後はすみやかに去る人が増えている。これがまた、自分の世界を持っているようで格好良い。人に気を遣わせずに消える。ぐだぐだと別れの挨拶をしない。実に時間を有効に使っている。それでいて残された人に「あの人なんで帰ってしまったの」という興味を持たれる。なんとも羨ましい人種である。

 男女の別れもまた、現在ではメールやLINEで「別れましょう」で済む時代。昭和の頃のように、喫茶店で会って別れを告げると、別れの理由を聞かれ、理由を述べても納得して貰えず、修羅場となる時代ではない。メールやLINEの返信にてぐだぐだ言われても、着信拒否をすれば全てが終了となる。着信拒否後に自宅に押しかけられたら、ストーカーと罵り、警察を呼べばよい。本当に警察沙汰となることもあるが、よほどプライドの高い相手でなければ殺傷沙汰にはならない。ストーカーとなる人は、独占欲や自己愛が強く妄想癖があるとかと言われているが、結局は我が儘でプライドが高いのだと思われる。という私も反省したいところではある。すみません。ただひたすら好きだっただけなのです…。

 残念ながらクール世代ではない人々は、別れを告げる時は、別れの場を設けてしまう。相手が恋人でも友人でも。会ったら最後、相手が別れを望んでいなければ、別れの理由にちくいち口を挟み、関係を存続するために努力する旨まで述べられてしまう。最後は、こちらの情の薄さを非難され、罪悪感に陥るはめになる。逆恨みされて嫌がらせをされることもある。まあ、相手の対応によっては、恨んでも良し!!

 後の遺恨を残さないためにも、特に男女の別れ話の際は、気を付けて言葉を選ばなければならない。こちらの正当性を主張するために、沢山の言葉を考える。相手が人格的に非のない人であれば尚更のこと。「一緒に居て退屈」とか、「愛情が重い」などという相手を傷つける言葉は言えない。自分自身の仕方の無い都合を述べ、説得できうる方向で考えなければならない。時には、悪者を演じる必要もあるだろう。無断欠勤の理由を考えるよりもはるかに大変。別れ話というのは、愛の告白よりも勇気が必要で面倒なことである。  

  海鼠噛むことも別れも面倒な  遠山陽子

 海鼠を噛む機会があるのは、料亭か居酒屋かと思ってしまうが、近所の魚屋でも売っているので自宅で食すこともあるだろう。こりこりとして、噛んでも噛んでも終わらない噛み応えが潮の香りを引き出す。噛めば噛むほど味が出るから厄介なのである。別れを告げる時も、楽しかった思い出やら好きだった記憶の残滓が胸を締めつける。そんな全てを飲み込んで、新しい明日へと踏みだしたいのだが、未練がましくお互い過去を咀嚼し合ってしまう。別れを面倒と思っている以上は、どこかで相手を尊重しているのである。面倒な相手だから別れたいのだが、別れを引き延ばせばさらに面倒なことになる。自分に必要のない人だと思ったら、相手を傷つけても自分が悪者になっても別れるべきである。無理をして付き合えば、さらに傷を深めることとなるのだから。ぐだぐだとしつこく咀嚼しているのは、どこかで未練があるのだと思われてしまう。海鼠を食べた自分に後悔し、好きになったことを後悔し、一抹の未練を噛み締めて面倒な思いをしているのだ。

篠崎央子


🍀 🍀 🍀 季語「海鼠」については、「セポクリ歳時記」もご覧ください。


【執筆者プロフィール】
篠崎央子(しのざき・ひさこ)
1975年茨城県生まれ。2002年「未来図」入会。2005年朝日俳句新人賞奨励賞受賞。2006年未来図新人賞受賞。2007年「未来図」同人。2018年未来図賞受賞。2021年星野立子新人賞受賞。俳人協会会員。『火の貌』(ふらんす堂、2020年)により第44回俳人協会新人賞。「磁石」同人。


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