千駄木に降り積む雪や炭はぜる
車谷長吉
12月1月の両月に亘るぼくの担当連載分も今回が最終回である。最後に、ぼくの身辺的なことをとりとめもなく書き散らす不届をお赦しいただきたい。
ぼくは一時期、車谷長吉にずいぶんと入れ揚げていた。おそらく著作の全てを読んだと思う。そんな車谷の新刊となる『癲狂院日乗』(新書館)が、作者の没後9年にあたる昨年に出版された。本書は、平成10年4月から一年分の日記をまとめたものである。
日記という体裁の都合上、車谷の住まいを起点とする地名がひんぴんと現れるが(車谷に限って言えば、その私小説性から必ずしも日記に特有のものではない)、それら駒込周辺の地名はぼくにとり、親しみを覚えるものが多い。というのも、車谷が暮らしていた場所は、ぼくが今、起臥する陋屋と、ほんの指呼の間ほどにしか離れていないからである。
ぼくが今の場所に住むこととなったのは、通勤や家賃といった差し迫った実際的経済的事情によるところが大きい。しかし、車谷が暮らした土地に住んでみたいというかねてよりの下心がないわけではなかったということも白状しなければならない。
平成11年2月27日の日記にはこうある。
駒込林町から駒込千駄木町へ引越し。
さらにそれ以前は、駒込動坂町に住んでいたとも書いている。
日記をたよりに、駒込周辺を空想のうちに逍遥してみたい。
駒込神明町の図書館で太宰治『東京八景』を読む。(平成10年4月21日)
ぼくはまさに今、この図書館から借りてきた車谷の句集を閲しているのである。本当は、さして広くもないぼくの部屋のどこかには同書があるはずなのだが、いざ必要な段になるとなぜか見つからない。なにごとも、手中にあることに安んじていては危険なのだ。
借りてきた句集の中には、「2009年11月10日までにお返しください。」との栞が挟まれたままになっている。
田端銀座の路上でコロッケを立ち喰いさせた話など。(平成10年4月26日)
このコロッケはどこの店のものだろう。思いつくのは「肉の彦坂」と「山田精肉店」である。ただ、前者は近ごろ閉店してしまった。ましてや、日記が書かれたのは30年近くも昔のことである。町の様相も大きく変わっていよう。今となってはわからない。
ちなみに、「山田精肉店」の唐揚げ弁当はまことにうまい。
田端銀座へ座ぶとんを買いに行く。(平成11年3月21日)
ここに登場するのは、衣料品店「サンキ」ではないだろうか。ともかく安い店である。店頭に、厚手のフリースジャケットが1着700円で並んでいたかと思うと、翌日には半袖のTシャツが1枚159円で積み上げられていたりする。
そぞろ歩きは際限もなく続きそうなので、ここで掲出句に触れておきたい。
千駄木は、車谷が終の住処とした土地である。地名の由来として一説には、かつて千駄にも及ぶ薪を伐採した雑木林があったことに拠ると言われている。であるなら、句中の千駄木と炭は、その根において相互滲透的に一句に奥行きを与えているといえよう。そういった磁場に降り積もるあえかな雪の白さは、ひときわ印象的である。
車谷はここで、駒込千駄木町という地貌の力を借りて一句を成しているのである。
さらにいえば、車谷は、過去この土地に住みなした漱石や鴎外の俤を町角に幻想しつつ暮らし、小説や俳句を成したはずである。
そう思いを馳せてみるとき、ぼくは、土地の持つ二重写し三重写しのめくるめくイメージの汪溢の中に、陶然と佇む。
おしまいに日記からもう一節、抜き書いてみる。
順子は私が眠っている間に、西友巣鴨店へ行って私の新しいパジャマを買って来た。(平成10年4月29日)
ぼくはさっそく、巣鴨の西友に急ぎ、殺風景な病棟のような店内でパジャマを物色した。大量の陳列の中から、はたして、良き物を見つけた。車谷の出身地である兵庫の播州織のそれである。ぼくは、迷わず需めた。特売で2200円であった。呵々。
(木内縉太)
【執筆者プロフィール】
木内縉太(きのうち・しんた)
1994年徳島生。第8回澤特別作品賞準賞受賞、第22回澤新人賞受賞、第6回俳人協会新鋭俳句賞準賞。澤俳句会同人、リブラ同人、俳人協会会員。
2020年10月からスタートした「ハイクノミカタ」。【シーズン1】は、月曜=日下野由季→篠崎央子(2021年7月〜)、火曜=鈴木牛後、水曜=月野ぽぽな、木曜=橋本直、金曜=阪西敦子、土曜=太田うさぎ、日曜=小津夜景さんという布陣で毎日、お届けしてきた記録がこちらです↓
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