しかしここでは、 荻原井泉水編の『一茶俳句集』(岩波文庫、1984年)から抽いた共感覚俳句のうち、はなはだ僭越ながら筆者がなるほど一茶らしいと直覚した秀句を、蕪村の場合に合わせて22句に限りリストに掲げ、大方の参考に供することとした。 その中には比較的よく知られる「涼風の吹く木へ縛る我子哉」「しづかさや湖水の底の雲の峰」「故郷は蠅まで人をさしにけり」などが含まれるが、 最も一茶らしい共感覚俳句として、あえて次の飄逸な秀句をクローズアップしたい。
散芒寒くなるのか目に見ゆる
共感覚の存在を熟知していたのではないかと思われるような一句である。 情動反応により近い生な感情(現代脳科学でいう一次感情)を捉えることに秀でた一茶の、肌の感覚を目で見た秀句だ。 一般的に一茶の句は、様々な生き物への情けを主とした感情面から評価されることが多いが、こうした視点から後掲のリストを鑑賞していただくことにも意味があろう。
思えば、これまでに見てきた非常に名高い俳人たちの秀句も、決してあからさまな喜怒哀楽の感情表現には向かわず、より直截な一次感情というべき内感を探り当てることで、単なる対象指示の表現域にとどまらない自己表出を成し遂げていたことに立ち返るのだ。 そこに暗示されるものの奥行き、深さ、広がりの豊かさに、人の心が揺す振られる。
三日月はそるぞ寒さは冴えかへる 視覚・触覚 (隠喩)
鶯や松にとまれば松の聲 触覚・視覚 (隠喩)
大井川見えてそれから雲雀哉 視覚・聴覚 (喩なし)
梅がかや生覺なるうばが家 嗅覚・視覚 (喩なし)
蕗の葉にぼんと穴明く暑哉 視覚・触覚 (隠喩)
しなの路の山が荷になる暑哉 視覚・触覚 (隠喩)
暑き日や胸につかへる臼井山 触覚・視覚 (隠喩)
涼風の吹く木へ縛る我子哉 触覚・視覚 (喩なし)
風の吹く木へ縛る我子哉 聴覚・視覚 (隠喩)
暁のむぎの先よりほととぎす 聴覚・視覚 (隠喩)
故郷は蠅まで人をさしにけり 視覚・触覚 (隠喩)
蟬啼や空にひつつく筑摩川 聴覚・視覚 (隠喩)
鵲の聲のみ青し夏木立 聴覚・視覚 (隠喩)
人聲に蛭の降る也夏木立 聴覚・視覚 (隠喩)
萩の葉にひらひら残る暑さかな 視覚・触覚 (声喩)
冷つくや背筋あたりの斑山 触覚・視覚 (隠喩)
鶯もひよいと来て鳴く柚みそ哉 聴覚・視覚 (声喩)
日ぐらしや急に明るき湖の方 聴覚・視覚 (喩なし)
擂鉢の音に朝㒵咲にけり 聴覚・視覚 (張喩)
散芒寒くなるのか目に見ゆる 視覚・触覚 (隠喩)
初雪やとある木蔭の神楽笛 視覚・聴覚 (喩なし)
霜かれや米くれろ迚鳴雀 視覚・聴覚 (活喩)
結果として筆者の恣意が混じり、客観性を欠くといわれても仕方のない掲出句を、これまでと同じ規準によって比較するのは無意味かもしれないが、一応の参考に供すると、リストからは次の諸点が指摘できる。 まず諸感覚の組合せでは、視覚と聴覚句が最も多く、次いで視覚と触覚句の順となり、その他(視覚と嗅覚)句が最も少ない。 この点は芭蕉句、蕉門十哲句、蕪村句と似通っている。 比喩の種類では、やはり隠喩が大多数を占め、芭蕉句、蕪村句と大差はない。喩なし句も多目ではあるが、十哲句にくらべるとかなり少ない。ここでも共感覚俳句と比喩(主として隠喩)との関係の強さが目にとまる。
芭蕉、蕉門十哲、蕪村、一茶と、巨視的に見れば 大同小異の傾向で受け継がれてきたといえる共感覚俳句だが、それは現代俳句にどう反映しているのかが、ここからの主題だ。 まず現代俳句という一括りの広大な海から、どのようにして共感覚俳句を汲み上げれば有意なのか、これまで述べてきた過去の流れと連接して比較検討を可能にする意味あるサンプル取りができるのか、という前段の課題に突き当たって苦慮した。 だが、突き詰めれば通じるものである。
3 / 4