汽水域ゆふなぎに私語ゆづりあひ
楠本奇蹄
以前も書いたが、私が良いと思う句集の条件は「読むと自分のスランプを脱出できる」という一点のみだ。
読み進めるうちにどんどん作りたいイメージが湧く句集が良い。最も影響を受けている俳人のひとりである楠本奇蹄氏の句集『グッドタイム』が発売された。その前に別の1句を紹介しよう。
耕してゆくたび白い主語になる
第11回百年俳句賞最優秀賞受賞句集『おしやべり』9ページ
この句がとても好きでしみじみ思い出す。私の人生で耕したことは一度もないし、「耕」で句を作ったこともなく、農耕の季語を使いこなすのは難しいと感じている。耕していると腰に負担がかかり難儀だろうが、次第に集中し鍬と土と自分だけの世界になる。土に深く刻まれる自分が居ると同時に、自我がなくなり一体化してゆく様を白と表現しているのか。農耕の季語をこれほど抽象的に使いながらオリジナリティのある句に仕上げていることに驚く。「耕す」という生の本質を感じる一句だ。
ここで『グッドタイム』の句を紹介していこう。
瑠璃鶲とぎれとぎれに森の母語 『グッドタイム』37ページ 以下も同じ
六月の給水塔は赤い主語 39ページ
人参の花ゆつくり拾ふ接続詞 78ページ
レモネード鎖骨は私語を醒めてをり 83ページ
このように言葉に関する句が登場するのが印象的だ。
汽水域ゆふなぎに私語ゆづりあひ 180ページ
会話をしながら相槌をうったり微笑み返したり、豊かな時間が流れていく。そのうちにお互いが同時に話してしまい「先にどうぞ」「そちらこそ」と譲り合う。風のない夕凪と海水と真水の交じる汽水域が、大切に思い合う関係とリンクしている。
奇蹄氏の句は光景はあるものの、あまり多くを語らない絵のようだ。「僕の言葉」として伝えたいことはあるのだろうが、語るために口を開けても声には出さずさらりと行ってしまう。読者は何層ものショコラの口溶けを楽しむように読む。舌先にまったり残るショコラ。
濃厚ショコラティエと呼ぼうか。
(有瀬こうこ)
【執筆者プロフィール】
有瀬こうこ(ありせ・こうこ)
2016年12月作句開始。
いぶき俳句会所属。豆の木参加。
2023年第13回百年俳句賞最優秀賞。
2024年第30回豆の木賞。
2025年第8回俳句四季新人賞奨励賞。
2024年「えぬとこうこ」発売。
2025年末「えぬとこうこ2」発売予定。
【2025年5月のハイクノミカタ】
〔5月1日〕天国は歴史ある国しやぼんだま 島田道峻
〔5月2日〕生きてゐて互いに笑ふ涼しさよ 橋爪巨籟
〔5月3日〕ふらここの音の錆びつく夕まぐれ 倉持梨恵
〔5月4日〕春の山からしあわせと今何か言った様だ 平田修
〔5月5日〕いじめると陽炎となる妹よ 仁平勝
〔5月6日〕薄つぺらい虹だ子供をさらふには 土井探花
〔5月7日〕日本の苺ショートを恋しかる 長嶋有
〔5月8日〕おやすみ
〔5月9日〕みじかくて耳にはさみて洗ひ髪 下田實花
〔5月10日〕熔岩の大きく割れて草涼し 中村雅樹
〔5月11日〕逃げの悲しみおぼえ梅くもらせる 平田修
〔5月12日〕死がふたりを分かつまで剝くレタスかな 西原天気
〔5月13日〕姥捨つるたびに螢の指得るも 田中目八
〔5月14日〕青梅の最も青き時の旅 細見綾子
〔5月15日〕萬緑や死は一弾を以て足る 上田五千石
〔5月16日〕彼のことを聞いてみたくて目を薔薇に 今井千鶴子
〔5月17日〕飛び来たり翅をたゝめば紅娘 車谷長吉
〔5月18日〕夏の月あの貧乏人どうしてるかな 平田修
〔5月19日〕土星の輪涼しく見えて婚約す 堀口星眠
〔5月20日〕汗疹とは治せる病平城京 井口可奈
〔5月21日〕帰省せりシチューで米を食ふ家に 山本たくみ
〔5月22日〕胸指して此処と言ひけり青嵐 藤井あかり
〔5月23日〕やす扇ばり/\開きあふぎけり 高濱虚子
〔5月24日〕仔馬にも少し荷をつけ時鳥 橋本鶏二
〔5月25日〕海豚の子上陸すな〜パンツないぞ 小林健一郎
〔5月26日〕籐椅子飴色何々婚に関係なし 鈴木榮子
〔5月27日〕ソフトクリーム一緒に死んでくれますやうに 垂水文弥