冷蔵庫どうし相撲をとりなさい
石田柊馬
鑑賞に入る前に、掲句は川柳として発表された作品である。
俳人の皆様は「川柳って何?」とご友人に聞かれたら、何と答えるだろうか。『はじめまして現代川柳』(書肆侃侃房、2020)で小池正博は「文芸としての川柳を指向する作品」を現代川柳だと定義している。私にとっては伝統川柳も現代川柳もないので、すべて川柳と呼ばせていただく。俳句とは別に、五七五の定型を持ちながら文芸を指向する作品が作られ続けてきたのである。
もう一つ寄り道をさせていただくと、アートをアートたらしめるのは舞台装置の側ではないか、という考え方がある。かつてヨーロッパでは感性的な「鑑賞」ではなく知的な「解釈」が重要視された潮流があった。作品が美しいかどうかではなく、作品が我々に何を考えさせるのかということを人々は求めていた。そうなるとアートは専門家が知恵と技術の粋を凝らしたものでなくともよく、名前の書かれた便器も「解釈」可能であるからアートに数えられている。この解釈即藝術という態度は、日用品と藝術作品の境界を曖昧にする。便器をアートとして楽しむ人々も、駅のトイレを利用した際に「藝術作品がある!」と感動することはないだろう。展示台の上に物体が置かれているという状況が、これを「解釈」してくださいという形で差し出されている状況が、アートを生み出していると言える。
さて、翻って俳句はどうだろうか。
投句欄にあれば俳句?
先生が認めれば俳句?
解釈可能なら俳句?
俳句の鑑賞とは舞台装置に支えられているものなのか、それとも作品そのものを見る営みなのか。俳句と部分的に重なる川柳を紹介することで、皆様が俳句を改めて考える契機になれば幸いである。
川柳の暴力性というのは度々言われることで、掲句はまさに暴力的だ。「冷蔵庫」に「冷蔵庫」らしさではなく、らしくなさを求めている。ただ、「冷蔵庫」に「相撲」を求めるのは、ある種必然なのかもしれない。現在、ブロンソン・リードという名前で活躍するプロレスラーは、あまりの大きさから「冷蔵庫」と呼ばれた。見事なあんこ型も度が過ぎれば「冷蔵庫」なのである。近年のプロレスはヘビー級(100kg以上)であってもそっぷ型(痩せ型)のレスラーが多い。プロレスの醍醐味の一つである巨大な人間同士のぶつかり合いは、やや希少な物になってしまった。そんな中「冷蔵庫」が現れたとすれば「取っ組み合え!」と望むのは自明の理だろう。プロレスの訓練を積んでいなければ「相撲」を命じるだろう。一読「どういうこと?」という困惑の中に小さな納得があるのは、人間の深層心理に響いてくるからなのかもしれない。
(日比谷虚俊)
【執筆者プロフィール】
日比谷虚俊(ひびや・きょしゅん)
「いぶき」所属、「楽園」同人、「銀竹」代表、現代俳句協会青年部所属。
【2025年9月のハイクノミカタ】
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【2025年8月のハイクノミカタ】
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〔8月15日〕冷汗もかき本当の汗もかく 後藤立夫
〔8月16日〕おやすみ
〔8月17日〕ここを梅とし淵の淵にて晴れている 平田修
〔8月18日〕嘘も厭さよならも厭ひぐらしも 坊城俊樹
〔8月19日〕修道女の眼鏡ぎんぶち蔦かづら 木内縉太
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〔8月21日〕楡も墓も想像されて戦ぎけり 澤好摩
〔8月22日〕ここも又好きな景色に秋の海 稲畑汀子
〔8月23日〕山よりの日は金色に今年米 成田千空
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〔8月29日〕優曇華や昨日の如き熱の中 石田波郷
〔8月29日〕ゆく春や心に秘めて育つもの 松尾いはほ
〔8月30日〕【林檎の本#4】『 言の葉配色辞典』 (インプレス刊、2024年)