俳句の本たち【ガチの書評】

【書評】相子智恵 第1句集『呼応』(左右社、2021年)

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手強き17.5音詩の世界
――相子智恵『呼応』(左右社、2021年)――


「裏山というのにはまだ新しい森の中を父と歩いた。
その裏山の自然は冷たく、そしてどこかあたたかかった」

 蓮井元彦の写真展「裏山」に寄せられたステートメントの冒頭の一文だ。この「裏山」という写真は、うっすらと雪が残る林のなかの芒の群れを中心的素材としている。一見すると春先のような雪の残り方だが、芒はまだそれほど惚けておらず、初冬の一景なのだろう。暗めの青い光の色が、朝方でも夕刻でもない空間を思わせ、芒を包むやや過剰とも見える光は、その穂を抽象化している。焦点はむしろ芒の草のほうにあり、写真を見ている間、目の焦点はなかなか定まらない。この作品が、相子智恵の第一句集『呼応』の表紙にあしらわれている。

  群青世界セーターの頭の抜くるまで

 句集の白い帯に薄めの青色で記されたこの一句は、表紙の「青の世界」と呼応しているのかもしれない。一冊の末尾にこの句を見つけたとき、読者はこの一冊が作者の提示する世界が、「セーターの頭の抜くるまで」であったようにも思えてくるだろう。〈句集を読む〉という経験は、たしかに考えてみれば、セーターのなかの一瞬よりは少し長い、あの空間と似ているのかもしれない。文字をつうじて想像されるのは現実の断片ではあるけれど、しかしそれは、わたしにしか見えない場所。蓮井のカメラが映しとった「裏山」のようだ。

 21歳のとき、大学で俳句と――のちに師となる小澤實と――出会った作者は、すでに25年近い歳月を句歴として積み重ねている。この句集に限らず、長年の歳月を経て一冊を編もうとするとき、そこから篩い落とされる句の数の多さを思わずにはいられない。もちろん、若き日の作品はごっそりと捨ててしまうという選択肢もあろうが、句集の冒頭に選ばれたのは、次の一句。句のすぐ横には「1997年」と明記されている。

  柳絮飛ぶこけら落としの日なりけり

 柳は春先、花を咲かせたあとに、綿毛のような実を結ぶ。風にふわふわと舞う「柳絮」は、おそらく故郷ではなく、作者が大学以降を過ごした東京のどこかの、ほどよく自然が周囲にあしらわれた劇場だろう。刻印された年は折しも、新国立劇場が初台にオープンした年だ。あるいは、都心から少し離れたキャンパス内で、新歓イベントとして実施された学生劇団の初日なのかもしれない。ともあれ、この句集の「こけら落とし」は、作者が俳句をはじめて二年ほどの一句で、そこから16年間の句が時系列に収められている。

 「同時期の私は学生劇団をつくり、演劇をたくさん観ていたのだが、そこには「いま、ここ」でしか味わえないライブ感・生きている実感があった」と、15年ほど前に書かれた文章のなかで、相子は当時のことを述懐している。野田秀樹(夢の遊民社)、鴻上尚史(第三舞台)、渡辺えり(劇団三〇〇)、横内謙介(扉座)など、80年代の小劇場ブームを経て、平田オリザ(青年団)、ケラリーノ・サンドロヴィッチ(NYLON100℃)、宮藤官九郎(大人計画)が活躍を見せていた90年代だが、〈チェーホフの科白長しよ茨の芽〉などという句が入っているところを見ると、わりと真面目な芝居をされていたのかもしれない。

一回しかないこの時を他者とともに生き、共感する詩。他者が持っている自己と異なる感性との出会いや、自分を取り巻く自然との出会いを積極的に肯定する詩。それは他者や自然と自分との関係においてだけではない。一句の中での「取り合わせ」というのも、じつは季語とそれ以外のものが出会って生まれるのだという当たり前のことに思い至ったとき「そうか、俳句は出会いの文芸なんだな」と、すとんと腑に落ちた。

相子智恵 「われら」の世代が見えない理由 マイクロポップ時代の俳句

 作者は、みずからが俳句をはじめた当時の状況を振り返って、このように書き残している。この評論の要旨をごく大雑把にまとめれば、情報化、価値の多様化が進み、世相的にも社会不安を感じざるをえないなかで、俳句ではつねに、他者を巻き込みながら(「偶然性」「セレンディピティ」)、一回的な(ライブの)句会を通じた交流が交わされることによって(「挨拶性」「コミュニケート」)、疎外された(ように感じている)生が回復されるように感じられる、ということだった。そして、自分たちの世代には大きな「革新」よりも、小さな「創造」が大事なのだ、とも彼女は書いている。

 「小さな創造」のバックボーンには、何があるのだろう。『呼応』を読み終えてみて、少し驚くのは、そのひとつに一種の「瑣末主義」が見てとれることだ。おそらくそれは、「澤」という結社のひとつのコンセンサスでもあるのだが、ひとまずそういう横の文脈は措くとして、例をあげてみるなら、たとえばこんな句である。

  冷やかや携帯電話耳照らす

  プリンやや匙に抵抗して春日

  ホチキスの針コの字光りや雪催

  紙吹雪固まり落ちや初芝居

 携帯画面の光、プリンの匙、ホチキスの針、紙吹雪……こうした存在はいずれも、歳時記のなかのフィクショナルなものではなく、日頃の生活のなかで出会う具体物である。そこに耳の明るさ、(少しの)抵抗、コの字光り、固まり落ち……といった質感が加わることで、一句の中心的素材がおのずと定まる。このとき、「冷やか」、「春日」、「雪催」、「初芝居」といったような季語が、ものの質感と〈呼応〉するように用いられている。ホチキスの針の鋭角な感じと暗い銀色は、「冬ぬくし」では合わない。「春浅し」のどちらがいいかどうか、などという議論の余地はあるだろうが、「雪催」はその色合いから見ても、わりと理解しやすい〈呼応〉があるだろう。

 この作者の基本線には、〈季節感のないものに季節感を与える〉ことが、ある。そう思われるのは、このようなタイプの句をとぎれとぎれに目にするからだが、先ほどの引用でもそれは、季語とそれ以外のものが「出会って」生まれる俳句は、「出会いの文芸」であるという言葉によって説明されている。

  びつしりと回転寿司の皿ゆく秋

  デパートの中に駅あり夏きざす

  短日や立てて少なきマヨネーズ

  ロールケーキ切ればのの字のうららなる

  証明写真カーテンに足見えて夏

  こうした句を目にするとき、季語以外の部分(おおよそ12音)は、季語(おおよそ5音)の力を借りて、一句として「立つ」。逆にいえば、季語以外の部分には、それほど固有の季節が感じられるわけではない。たとえば、デパートの中に駅があるのは一年中変わらない。しかし、「夏きざす」と言われてみて、それがあたかも〈呼応〉しているように感じられるのは、新学期が過ぎて初夏を迎え、人混みにも店構えにもエネルギーが満ち溢れていると思えばこそ、改札を抜けた先がすぐ店であるという都会の賑やかさもいっそう強く感じられるからであり、つまるところ、「デパートの中に駅あり」という一見当たり前の事実を切り取っているように見えて、それに固有な状況や雰囲気を描いてもいるのである。

 このあたりの描写における視点の妙が、智恵俳句のひとつの勘所になっているのは、疑う余地がない。だから、この句集には「我」や「君」という人称が目につくとしても、さほど驚くにはあたらない。

  夏シャツの我も戦士や残業す

  初雀来てをり君も来ればよし

  花野に逃げぬ汝が家の呼鈴押し

  一滴の我一瀑を落ちにけり

 一句に「視点の妙」が感じられるということと、句のなかに「我」や「君」が登場することは、表裏一体というか、実質的には同じことである。季節はつねに背景であり、その手前には作者自身や、作者の生活そのものがあるからだ。これは一見すると当たり前のことのように聞こえるが、季語という文化的蓄積のなかに、急に「我」を入れようと思ってもなかなかうまくはいかない。季語の説明になっても、季語から離れすぎてもいけない。そういう意味で、智恵の「我」は、季語の現場に立ち会っている。まさに「君も来ればよし」だ。

 韻律のレベルで最も驚いたことは、下五の字余りがとても多いということである。これは、他の句集と比べてみても、平均をはるかに凌駕しているのではないだろうか。

  風邪薬甘きを飲みつ飲まされたし

  北斎漫画ぽろぽろ人のこぼるる秋

  太郎冠者寒さを言ヘり次郎冠者に

  銀幕に寄ればしみあり氷菓甘し

  春ショールなり電柱に巻かれしもの

 自分のことをいえば、第一句集を編むときに、意識的に一句だけ下六の句を入れた。しかしそのときでさえ、なぜこれは下五にしないのか、と言われたほど、座五の字余りには厳しい人がいる。だから、この句集で下六の句を目にするたびに、どこか勇気づけられるような気分にさえなった。まあそれは措くとして、字余りの多い俳人といえば、加藤楸邨がすぐに思いつくが、相子もまた「字余り」が多い作家として、認識されてよいだろう。意識的に抜き出してみると、こんな具合である。

  肌色寒し悉く貝剝かれあり

  某家の花見つつ過ぎたり某氏に謝し

  花火しだれぬ次の花火にまぎれつつ

  渋谷大寒ティッシュ配りを八人かはし

  貝割菜切り放つなりスポンジより

 この稿の前半に見た句群と比較すれば、これらの句の「情報量の多さ」は、師である小澤實が若き日に詠んだ〈蛇口の構造に関する論考蛭泳ぐ〉〈メリーゴーラウンド百鞍すべて晩夏の人〉といった句を喚起する。「飲みつ飲まされたし」「某家/某氏」「しだれぬ/まぎれつつ」といった〈呼応〉はまた、〈九十鉄斎九十北斎春の蠅〉〈胡麻かける胡麻のおはぎを積めるうへ〉〈人抱けば人ひびきける霜夜かな〉といった句を喚起する。師から技法を学びとり、みずからの俳句的素材を発見しているということか。いうなれば、季語よりも「素材」が優先された結果として、この句集の俳句は平均して、17音詩から、17.5音詩くらいにまで「膨張」しているのだ。加藤楸邨の「十七音量性」(=「十七音の量」で発音できればよしとする)とは、似て非なるものである。

 だから、さきほど書いたことと矛盾するようだが、この句集で「我」は、それほど強く感じられないという、奇妙な事態が起こっている。よく俳句の連作で「作者像が見えない」という批判的言辞が聞かれることがあるが、しかしここから「ひとりのキャラクター」が強く一冊から立ち上がるということは、ない。たとえば、「女」や「親」という社会的な主体性は、ほとんど描かれない。この句集の「我」はどちらかといえば、複数的で、分散的で、中性的だ。小澤實の句の巧さをそのまま素直に継承しているようなところもあれば、〈筍飯油揚大事ふつくらと〉のような、衒いのない幸福感に満ちた句もあり、その句柄の幅というか、プリズム性というか、ともかくも多様性が、この一冊を力強いものにしているのである。

 にべもない言い方をすれば、この作者は俳句が大筋では「技巧」にすぎないことを認めているのだと思う。それはある種のひとびとを幻滅させるかもしれないが、しかし技巧が技巧にとどまらないのは、この作者が歩きつづけ、動きつづけ、考えつづけているからにほかならない。出会いつづけること、それは存外むずかしい。普段の人生のなかでも、出会う人の数、見れる映画の数、飲める酒の量は(人にもよるが)限られているからだ。歳時記に収録されている季語の数は限られている。句会で出せる句の数は限られている。生涯に作ることができる句の数は限られている。

 『呼応』に収められている句は、そういう意味で、技巧の問題(とくに同じ言葉を重ね合わせること)を抜きにすれば、お互いに似ていない。流行の言葉でいえば、類想感があまりないということになろう。繰り返すが、それはこの作者が回遊魚のように泳ぎ続け、さまざまなものやひとと「出会って」きたからだ。冒頭で引いた評論にも書かれていた通り、新自由主義、グローバリゼーション、高度情報化が加速していった90年代は、非正規雇用(フリーター)が増加していき、あたらしいタイプの社会不安が拡大していった時期でもある。そのように流動性が高まる時代に10代、20代を過ごしたこととも、どこか通低しているように思われてくる。

 相子はかつて句会の「ライブ感」を、演劇体験になぞらえながら、こんなふうに書いていた。

自分の句が他者の鑑賞を得て、想像以上のものになっていく。自分の句が、みんなの句となっていく、その場の持つコミュニケーションの力。そんな〈いま、ここの「瞬間」の生命力がありながら、なにか大きな「深遠」を掴まえようとする詩〉それが私にとっての俳句の魅力であった。1995年という年にそれに出会ったことも、あくまで結果論だが、いま思うと大きかったかもしれない。

相子智恵 「われら」の世代が見えない理由 マイクロポップ時代の俳句

 彼女は、80年代的な「自分探し」の凋落のあとで、自分が「想像以上のもの」になっていく快楽を、句会のコミュニケーションに見出している。親の代から支持してきた政治家を支持しつづけるのではなく、いわゆる「無党派層」として、自分で時代の空気を読みながら自身の信じる政治家に一票を投じること。護送船団方式の会社に永久就職するのではなく、その年、その月でやりたいことを仕事にすること。そんな生き方を選ぶことと、句集『呼応』は〈呼応〉しているように思われてならない。先の文章は、当時の20代・30代の世代性が見えないという批判に対しての応答だったようだが、15年経ったあとでは、むしろくっきりと、その時代性や世代性が見えているから、不思議だ。

 だが、句集を読むときに、そんな社会状況的なことを考える必要はまったくない。そんなことを考えなくても、十分にオリジナリティが楽しめる句集である。読者には、読者それぞれの「群青世界」が待っている。ただし、よく「噛んで」読むように。

  手強しよ信濃とろろは噛んで食へ  智恵

 じつに「手強い」句集である。流動するなかに、たしかな噛み応えがある、そんな「信濃とろろ」のような句集でもある。


【執筆者プロフィール】
堀切克洋(ほりきり・かつひろ)
「銀漢」同人。


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