マルシェに売る鹿の腿肉罠猟師
田中槐
作者は、1960年生まれ。澤俳句会・未来短歌会に所属。掲句は澤274号より。
掲句では、下五の深い詩的断絶が一際目を惹く。罠猟師がそのままこだわりの強い肉屋として、人の集まりの中で自分が狩った鹿の腿肉を売っているのだろうか。その状態で罠猟師がただのショップスタッフでないことを知ることができる人間がごく少ないはずであるからこそ、街の小ささやマルシェの規模感、作中主体との距離感が深く考察できる。「マルシェ」という軽やかな言葉も効果的で、食品としての鹿の腿肉が非常に良く似合う場所だと思う。
罠にかかった鹿の様子といえばおそらく宙吊りに近く、力なく首を振るかのようにもがいている姿が想像される。そもそも猟とは人間が生きるための行為ではあるが、中でも罠猟は銃を使う猟に比べて受動的で、綺麗な肉を人間の都合に合わせて用意することができる、という見方をすることも可能である。掲句は上五も下五もどこまでも人間のための営みであるからこそ、自然が育んだ「鹿の腿肉」がいっそう赤々と輝いている。
俳句と短歌を並行して発表し続けている氏の言葉は自由そのものである。近年の短歌作品をいくつか挙げると、
一族の(似た名の多き一族の)長き物語の果つるまで
触れないでくださいマークの手のひらが目の前にあり、触れないでゆく
(それぞれ未来875号、876号)
などが印象的。どこか掲句にも似た命に対する感覚が通っていそうである。
私は同じ短歌結社に属していることもあって(氏は「フェルミの海」欄の選者として活動している)、短歌作品には深く馴染みがある。改めて俳句作品に向き合えたことが大変嬉しく、併せてさまざまな面からより深く読み込む読者も増えたらと思う。
2つ以上の表現手段を手にしたとき、どちらも選ぶ、あるいはひとつに選ばないという決断はそれぞれの創作物にとって良いことなのかどうか、ということがたびたび話題に上がるが、全く性質の違うことだと解釈した上で、境界線を彷徨う形で取り組むと最高に楽しめるかもしれない、ということが今のところの私の結論である。
自分の創作活動についてもパラレルワールドの話をし続けることは結局深い意味をなさないが、あの俳人が、あの歌人が、もし違うジャンルの表現手段の道を進んでいたらどうなっていただろうか、と考えることはよくあり、どこまでも空想は尽きない。
偶然の出会いから俳句の世界を探究しはじめた俳人は多いと聞くが、例えばあなたがもし最初に惹かれたものが短歌だったら、あるいは……? 甚だ生意気ながら、実作者の仲間たちには俳句という形式を選び続ける理由をときどき考えていただきたいとさえ思っている。最終的に「俳句とは何か」という大きな問いの前でさまざまな悪戦苦闘を共にしたい。
今回、2ヶ月間の連載を務めるにあたって、俳句の他に創作活動に取り組む人々の作品を軸に考察していこうと計画している。思考することも創作することも、よろしければ是非ご一緒に。
(野城知里)
【執筆者プロフィール】
野城知里(のしろ・ちさと)
2002年埼玉生。梓俳句会会員、未来短歌会会員。第12回星野立子新人賞、第70回角川俳句賞佳作。
2020年10月からスタートした「ハイクノミカタ」。【シーズン1】は、月曜=日下野由季→篠崎央子(2021年7月〜)、火曜=鈴木牛後、水曜=月野ぽぽな、木曜=橋本直、金曜=阪西敦子、土曜=太田うさぎ、日曜=小津夜景さんという布陣で毎日、お届けしてきた記録がこちらです↓
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