つゆくさをちりばめここにねむりなさい
冬野虹
ひらがな表記が印象的で、不思議な魅力を湛える一句。
〈つゆくさ〉はツユクサ科の一年草で、野原、路傍、庭先など身近に見られる。青い清楚な花は、夜明けとともに開いて昼にはしぼみ、その短命さが朝露を連想させることから「露草」と名付けられたという。
また、花弁の色が衣服などに「着」きやすいことから「着草」(ツキクサ)、やがて「月草」と表記されるようになったとも言われ、『万葉集』『古今集』においては「月草」として詠まれている。
染料でもあり「青花」(アオバナ)として、漢方の生薬でもあり「鴨跖草」(オウセキソウ)としても知られる。他にも、その容姿からであろうか「蛍草」(ホタルグサ)や「帽子花」(ボウシバナ)などと別名が多く、古くから幅広く人々に親しまれている草花とわかる。そして筆者もこの花を愛する一人だ。
自生地は日本全土を含む東アジア。筆者の生まれ育った信州ではいたるところに見られる。露草はアメリカ東北部などに帰化しているため、在住のニューヨークでも毎年、この可憐な花の生きた青と出会えるのは嬉しい。
つゆくさをちりばめここにねむりなさい
閑話休題。この一句は誰かが誰かに語った台詞のようにしてここにあるが、それを語った人も語られた人もどちらも句中には登場しない。
音の存在を可能にするのが静寂であるように、物の存在を可能にするのが空間であるように、書かれたものの存在を可能にしているのが、書かれていない部分であるならば、この句は、そこへ読者を静かに誘っている。
書かれていないからこそ、ここから先には想像・創造の空間が広がっている。その空間で、読者の一人としてしばしこの句と語り合ってみたいと思う。
一体誰が誰に、この台詞を言っているだろう。
通常、動作の主語が句中に無い場合は、作者が省略されていると解釈する場合が多く、そうすると語った人は作者だ、ということになる。ひとまずそうとして、では語られた人とどんな関係にあるのだろうか。
〈なさい〉という物言いから、その関係が想像できそうだ。〈なさい〉は動詞「なす」「する」の尊敬語「なさる」の命令形。語り手は相手に丁寧に命令をしている。たとえば、親子などの愛情ある上下関係と言ってもよいだろうか。
つゆくさをちりばめここにねむりなさい
「〈ここにねむ〉る」という表現からは、西洋の墓碑に刻まれる「Rest in peace(ここに安らかに眠る)」が想起される。すると、この句の場面が、相手に死を告げている場面と見えてきた。
瞬く間に語り手は、作者というアイデンティティーの限定をしなやかにすり抜けて、人智を超えた存在、たとえば神と呼ばれる存在の視野を獲得し、その存在が、自らが想像・創造した人間に〈ここにねむりなさい〉と愛と慈しみを持って告げている場面となった。
この句に漂う柔らかさと明るさは、死とは決して苦の対象ではないことを伝えているように思わせる。死とは、魂が、肉体と別れを告げて、かつて居た魂の故郷、源へ還ることであり、そこには永遠の安らぎと喜びがあるという。
つゆくさをちりばめここにねむりなさい
さらに〈ねむり〉は肉体の死、ではなく、それまで自分を自分としていた意識の死、の象徴とも思えてきた。それは同時に、新しい意識の目覚めも予感させる。人は肉体に生きながらにして魂の源にある安らぎと喜び、つまり悟りの境地に至る。
すると、この一句が、その意識の変容へ優しく誘う、祈りの言葉、マントラのように思えてきたのだ。
語る人と語られる人、その両者は今、読者の中にいる。そして読者は、自分自身に、語る。
つゆくさをちりばめここにねむりなさい
もう一度この句を見て、声に出してみる。ひらがなが醸し出すやわらかさと、露草の青の美しさ、それから心身の深いところにある懐かしさが呼び合い溶け合う感触をただ味わってみる。
つゆくさをちりばめここにねむりなさい
今度は目を瞑り、心の中で言ってみる。そして深呼吸。心が秋の空気のように澄んできた。
冬野虹作品集成 第一巻『雪予報』(書肆山田)所載。
(月野ぽぽな)
【執筆者プロフィール】
月野ぽぽな(つきの・ぽぽな)
1965年長野県生まれ。1992年より米国ニューヨーク市在住。2004年金子兜太主宰「海程」入会、2008年から終刊まで同人。2018年「海原」創刊同人。「豆の木」「青い地球」「ふらっと」同人。星の島句会代表。現代俳句協会会員。2010年第28回現代俳句新人賞、2017年第63回角川俳句賞受賞。
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