忘るるなこの五月この肩車 髙柳克弘【季語=五月(夏)】

忘るるなこの五月この肩車
髙柳克弘

 句集『涼しき無』(ふらんす堂、2022年)より。2017年の章より。同句集の2016年の章に〈名をもらひ赤子も花の世の一人〉とあるので作者の子どもはこの時1歳だったのだろう。「忘れるるな」と口調は強くても、どこか他人事のようである。それは、いつかこの子どもは自分の手元を離れていくことを予見しているかのようである。

 元々、〈色持てるもの寒林におのれのみ〉(2016年)などのように、自分を取り巻く世界の中に潜む孤独を詠むことに長けている作者である。子どもが生まれても、〈散る花や襁褓替へつつ旅心〉(2016年)〈ぶらんこを押してぼんやり父である〉(2017年)と、どこか親になった実感を持ちきれなかったのだろう。

 筆者も、子どもを産んだ最初の1年くらいは、時々ぼんやりしていた記憶がある。ものも喋らず、こちらのすることにも明確な反応もない。練習とか努力とかでどうにか出来るとも思えない、まるで手応えのない相手。ふにゃふにゃで、寝たと思ったら昼夜を問わず泣きだす、酸っぱい匂いの排泄物を出して、ただ体温のある肉の塊…。
 ある朝目が覚めたら、隣に寝ていたはずの赤子は布団もろとも無く、「あれは、お前が見た夢だったんだよ」と誰かに囁かれても、「あ、そうか、所詮そんなものだよねぇ…」と、納得するだろうと思っていた。
 1歳を過ぎて、子どもが言葉を発するようになり、こちらのやること、言うことに、それなりに理屈のわかる反応をするようになって、子育てが「責任」だけでなく、俄然面白く、子どもが可愛いと思えるようになったというのが、正直な気持ちである。

 掲句の季語はなぜ「五月」なのだろう。青葉の眩しい5月の風や光の美しさの中での「忘れるるな」という祈りの言葉とも取れる一方、寺山修司の〈目つむりてゐても吾を統ぶ五月の鷹〉(『花粉航海』1975年)に見られるように、不在の父を感じさせる言葉であることにも気づかされる。

渡部有紀子


【執筆者プロフィール】
渡部有紀子(わたべ・ゆきこ)
天為」同人。第37回俳壇賞、第9回俳人協会新鋭評論賞第1句集『山羊の乳』(第1回初花賞)。俳人協会会員。藤沢市俳句協会会員。



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