山眠る細き蛇口のサモワール
満田春日
――仕事の終わりは、いつも唐突だった。
Aは長年のキャリアに疲れを感じ始めていた。毎日、同じようにスーツを着て、ビルのオフィスで何時間も電話会議に追われ、契約書に目を通し、何度も同じ話を繰り返してきた。時折、心の中で「これが本当に自分の望んでいた人生だったのか」と問いかけることもあったが、そのたびに目の前の仕事に没頭することで心を無理やり閉じ込めていた。
その日も、帰りの電車で頭を空っぽにしながら揺られていた。疲れた身体を支えながら、急にふと目に入った俳句が、どこからともなく現れたように感じた。それは、社内の一角に飾られているものだった。Aはその句を何度も目にしてきたが、なぜか今日はその言葉が心に強く残った。
山眠る細き蛇口のサモワール
その意味を深く考えることはなかった。しかし、今日はその言葉がどこか胸に刺さったような気がした。サモワールとは、ロシアの伝統的なティーサーバーのこと。山が眠り、細い蛇口から水が一滴ずつ流れ、サモワールから立ち上る湯気――静かで、温かく、穏やかな時間が流れるイメージがふと頭に浮かんだ。それは、長い間忘れていた感覚、無理に追い求めていた忙しい日常の向こうにある静けさのように感じられた。
「静かで、穏やかな時間……」
その瞬間、Aは突然、どこかへ行きたいという衝動に駆られた。彼の心は、不意にその句が描き出す世界に引き寄せられたようだった。それは、彼が長年、無意識のうちに求めていたものだったのかもしれない。
次の日、Aは仕事を早めに切り上げると決めた。自分でも驚くほどの決断だった。すぐに社長に連絡を取り、急用ができたとだけ伝え、荷物をまとめた。誰かに「休暇を取る」と言うのは、少し恥ずかしい気もしたが気にしないことにした。
駅のホームに立ち、Aは普段乗らない電車に乗った。行き先も決めず、ただ自然に身を任せた。やがて電車が山間の小さな町に到着し、Aはそこで降りることにした。
町の風景は、まるで俳句の世界そのものだった。静かな山が遠くにそびえ、町の中心には小さなカフェがひっそりと佇んでいた。Aはそのカフェに入ると、柔らかな照明が迎えてくれた。店内には、古びた家具と共に、サモワールが一台置かれている。店主の女性が優しく微笑みながら、熱い紅茶を注いでくれた。
「ここに来たのは、偶然です」
とAは言った。店主は微笑みながら答える。
「偶然じゃなくて、必然ですね。何かを探しているような顔をしていましたから」
Aは驚いたが、言葉を続けた。
「どうしてそんなことがわかるんですか?」
店主はサモワールの湯気を見つめながら答える。
「この町に来る人たちは、みんな何かを求めているんです。でも、求めているのは、外の世界ではなく、自分の内側にある何かなんです」
その言葉がAの胸に深く響いた。彼はここに来ることで、長い間忘れていたものを思い出したような気がした。忙しい日常の中で、自分を見失っていたのだと気づいた。ここで流れる時間のゆっくりとしたリズムの中で、彼は静かに息を整え、心を解きほぐしていった。
サモワールの湯気が立ち上り、その温かな香りが部屋を包み込む。細い蛇口からゆっくりと流れ出す水のように、Aの心も徐々に落ち着いていった。山が眠るような静けさと、そこから流れ出る温もりが、彼の中で一つになっていく。
その夜、Aは宿に戻り、窓から見える山の風景を眺めながら思った。忙しさに追われ、外向きの世界に囚われていた自分が、こんなにも心の中に静かな空間を持つことを忘れていたのだ。<山眠る細き蛇口のサモワール>の意味が、ようやく彼の中で溶け合った瞬間だった。
翌朝、Aは町を歩きながら、静かな山に包まれているような心地よさを感じた。彼はこれから、日常の中でこの静けさを忘れずに持ち帰りたいと思った。仕事へ戻る準備ができたわけではなかったが、心が静まったことで、Aは今、少しだけ自分らしく生きるための一歩を踏み出す覚悟ができていた。
(塚本武州)
【執筆者プロフィール】
塚本武州(つかもと・ぶしゅう)
1969 年、立川市生まれ。書道家の父親が俳号「武州」を命名。茶道家の母親の影響で俳句を始める。2000年〜2006年までイギリス、フランス、2011年〜2020年までドイツ、シンガポール、台湾に駐在。帰国後、本格的に俳句を習い、2021年4月号より俳誌『ホトトギス』へ出句。現在、社会人学生として、京都芸術大学通信教育部文芸コース及び博物館学芸員課程を履修中。国立市在住。妻と白猫(ユキ)の3人暮らし。
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