しろい小さいお面いっぱい一茶のくに
阿部完市
あたりまえのことだけれど、人生経験の豊かさと、詩歌を読んで何かを感じる能力とは、まったく別だ。
たとえこの世界を描写していたとしても、詩歌の中に流れる時間は物理的時間ではない。そして詩歌を読むことで養えるのは、いつでもこの、経験的浮世とは一線を画した観念の血肉である。
そのことを直感する者は、たとえ人生経験の乏しい子供であっても詩から多くのものを受け取る。子供は詩歌に書かれた内容を、自らの経験と照らし合わせて感嘆することはないかもしれないけれど、その代わり詩歌の言葉そのものを、未知なるものとして体験する。この〈言葉そのものの体験〉は、自らの経験と照らし合わせて言葉を腑に落とすことよりも、詩歌と深く向き合う可能性を秘めているだろう。
しろい小さいお面いっぱい一茶のくに 阿部完市
完市の句はいつも変わっているようで、あんがい意味の通らないことは書かれていない。掲句も信濃の風景をリリカルに描いてみたようだ。そして同時に、ここには浮世とは一線を画した観念の時間が流れている。それぞれの言葉はあたかも暗号のように観念と具体とをいったりきたりしながら瞬いているし、またその瞬きが振動となって作品世界に響き渡ってもいる。
いったい、この句を読んで、浮世の経験だけが書かれていると思う人はいるのだろうか? わたしには〈しろい〉〈小さい〉〈いっぱい〉の〈お面〉が、観念と具体との瞬く共鳴を体現する、きれいな鈴のように思われてならないのだけれど。
(小津夜景)
【執筆者プロフィール】
小津夜景(おづ・やけい)
1973年生まれ。俳人。著書に句集『フラワーズ・カンフー』(ふらんす堂、2016年)、翻訳と随筆『カモメの日の読書 漢詩と暮らす』(東京四季出版、2018年)、近刊に『漢詩の手帖 いつかたこぶねになる日』(素粒社、2020年)。ブログ「小津夜景日記」