
蝶堕ちて大音響の結氷期
富沢赤黄男
芭蕉以後から現代の共感覚俳句へ
芭蕉の共感覚俳句のリスト(先週)を作成しながら芭蕉の隠喩を含んだ統語力の強さとでもいうべきものを改めて実感したのである。 それははたして芭蕉以後に受け継がれたのか。 その点をしっかり見極めるためには、まず芭蕉の門人たちの共感覚俳句を覗いてみる必要があろう。 一つの方法として、日本近世文学の第一人者である堀切実の著書『芭蕉の門人』(岩波新書、1991年)により、氏が各門人の秀句と見て文中に取り上げている各句から、共感覚俳句を抽き出してみた。
同書の冒頭(「はじめに」)で氏は、「芭蕉という秀峰は、芭蕉を敬愛した多くの門人たちから成る連山の上に、どっしりそびえ立っている。 この世界的にも誇るべき名山を支えるのは、多士多彩な門下の俳人群像であり、人はこれをさして“芭蕉山脈”と詠んだりする」としるす。 その門人の数は「三百人とも二千人ともいわれる」中から同書では、芭蕉との人間的な結びつきの深さ、作品の評価、師翁敬慕の態度などから総合的に判断して、去来、杉風、許六、丈草、其角、嵐雪、支考、野坡、北枝、凡兆、惟然の十人を「新・蕉門十哲」として推挙している。
十人の秀句を通覧してみると、支考を除く九人に共感覚俳句があり、列記すると次のリストのようになる。 このうち去来の「郭公」句は、この稿の2回目の週で取り上げているが、リストのバランス上から再掲した。俳号の右側に付したのは共感覚の組合せと比喩の種類である。
一畦はしばし鳴きやむ蛙哉 去来 視覚・聴覚(喩なし)
郭公なくや雲雀と十文字 同 聴覚・視覚(隠喩)
声かれて猿の歯白し峰の月 其角 聴覚・視覚(喩なし)
雀子やあかり障子の笹の影 同 聴覚・視覚(喩なし)
ゆく水や何にとどまる海苔の味 同 視覚・味覚(喩なし)
我が雪と思へば軽し笠の上 同 視覚・触覚(喩なし)
雪の松折れ口みれば尚寒し 杉風 視覚・触覚(喩なし)
大名の寝間にもゐたる寒さ哉 許六 視覚・触覚(活喩)
藍壺にきれを失ふ寒さかな 丈草 視覚・触覚(隠喩)
梅一輪一輪ほどの暖かさ 嵐雪 視覚・触覚(直喩)
小夜しぐれとなりの臼は挽きやみぬ 野坡 視覚・触覚(喩なし)
百舌鳥なくや入日さし込む女松原 凡兆 視覚・聴覚(喩なし)
肌さむし竹切山のうす紅葉 同 視覚・触覚(喩なし)
蝋燭のうすき匂ひや窓の雪 惟然 視覚・嗅覚(喩なし)
一門とはいえ十人十色の俳風が感じられるのはさすがである。 とはいえ、芭蕉句との比較によれば、この十哲句に異なった傾向があることは見逃せない。 もとより芭蕉句について当たったのと同じように、各人の全句を通覧したわけではなく、単純な比較はできないが、まず似通っているのは諸感覚の組合せで、視覚と聴覚の共感覚が最も多く、次いで視覚と触覚となり、その他(視覚と嗅覚など)句が最も少ない点。
大きく異なっているのは、芭蕉句では比喩を含まない喩なし句が全38句中わずかに2句と、ほとんどが比喩を核心に抱いているのに対して、十哲句は、全14句中 10句までが喩なしであること。残る4句のうち、隠喩は2句である。 このことは、芭蕉句の多くが隠喩の求心的な力によって統語し、対象A、対象Bを結びつけて、AがBを限定するとともにBがAを限定する関係の堅固さを有するのに対して、十哲句の多くは、A、Bの並置にとどまっていることを示す。 比較によって初めて明瞭となる一個の物のような確かさの形成は、芭蕉名句の一半に見られる取合せの求心力についてもいえることだが、ここでは論及しない。
だからといって十哲句が、俳句として見劣りするというのではない。 ここでは、共感覚俳句の表現の特質や型を探っているのであり、A、Bの並置形であっても、比喩の原型と言われるアナロジー(類比)の優れた句に、秀句は数多くある。 比喩のある去来の「郭公」句、許六の「大名の」句、丈草の「藍壺に」句、嵐雪の「梅一輪」句はさすがだが、惟然の「蝋燭の」句にような喩なしで並置型の句にも、アナロジーのたしかさと面白さがある。
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