【連載】ハイクノスガタ【第5回】なぜ私は、手書きで俳句をつくるのか(後藤麻衣子)

俳句カリグラフィーから学んだ「書くからこそ、わかること」

これをさらに強く感じたのは、趣味の「俳句カリグラフィー」をはじめてから。

西洋のカリグラフィーの手法にヒントを得て、日本語を、そして俳句を書いてみよう、とはじめた「俳句カリグラフィー」。
一字一字、丁寧に書のように書いて作品にしていく、いわば手書きの極致のような行為です。

句帳に俳句を書く、創作時の手書きとは少し異なる話ですが、カリグラフィーを書くときは、「どんなかたちにするとこの漢字がきれいに整うか」「どうデザインするのが、この句に似合うか?」ということを考えながら、字の姿を考え、決めていきます。

「夕霞」の「霞」という文字を、丁寧に書いていくとき、まさに雨かんむりの「雨」の中の点を一つずつ置きながら私は、なんというか、独特の湿度を感じています。

ぽた、ぽた、と一粒ずつ水滴を落とすように書きながら、その霞の中にいるような気持ちに包まれます。

別の自句で、〈春潮や膀胱ぐいと蹴る胎児〉をカリグラフィーではじめて書いたときには、書き終えてから「この句には、“月”が4回も出てくるんだなあ」と、改めて発見がありました。

それは、迷いながらも〈春潮〉を取り合わせたことが腑に落ちたというか、自分の中で納得できるきっかけにもなりました。

『九楊先生の文字学入門』をさらに読み進めると、「哲学的接近=筆蝕とは逆説である」という段落には、このような記述もありました。

ーー 対象の側からの力、つまり「手応え」を感じる場に、作者が誕生します。作者は前もって存在するのではなく、書いている過程、書いている現場において「手応え」を感じていることによって作者になるのです。書いているかぎりにおいて作者なのです。それゆえ書く主体は場が生み出します。言い換えれば、筆蝕が作者をつくるのです。また、言葉は前もってあるのではなく、書きつつある過程(現場)に生まれます。それがすなわち「筆蝕は思考する」という意味です。
 書くときに何か新しい発見がある、「あっそうか、こういうことか」と発見することが「書く」ことです。書いている最中にもやもやしていた意識が言葉に変容して霽(は)れていくことが「書く」ことです。 

一文字一文字、文字になる前の一画ずつを書きながら、人はきっと、無意識のうちにその言葉の意味や響き、選択の是非を吟味しています。

「書く」という動作のなかで、「この言葉で本当にいいのか」「もっとふさわしい語は?」という対話が行われているとすれば、それは手書きを選ぶのに十分な理由になります。

私の場合でいうと、とても感覚的な話ですが、「手書きをする」ことで、そのことばや文字の微細な揺らぎや逡巡、ためらいが、感性のようなものを引き出してくれる気がしています。

それを私自身が信じ、無意識下の感覚や変化をかなり頼りにしているから、手書きでないと俳句が書けないのかもしれない、……という、私なりの結論に至りました。

スマホやパソコンで文字を「打つ」ときには、便利すぎて省略されてしまう、ことばとのゆっくりな対話を求めて、私はあえて「手書き」を選んでいるのかもしれません。

参考文献・資料
石川九楊『九楊先生の文字学入門』(左右社)
・句具「俳句の作句・作品管理に関するアンケート」(2022年実施)

後藤麻衣子


【執筆者プロフィール】
後藤麻衣子(ごとう・まいこ)
蒼海俳句会」所属。現代俳句協会会員。「俳句雑誌noi」チーフエディター。「第15回北斗賞」佳作、「全国俳誌協会 第4回新人賞」特別賞」受賞。名古屋芸術大学 芸術学部 デザイン領域「文芸・ライティングコース」非常勤講師。国立大学機構「CommonNexus」ComoNeアンバサダー、大垣市奥の細道むすびの地記念館 企画展示委員会、三菱鉛筆オンラインレッスン「Lakit」俳句レッスンクリエイター。
俳句と文具が好きすぎて、俳句のための文具ブランド「句具」を2020年に立ち上げる。文具の企画・販売のほか、俳句アンソロジー『HAIKU HAKKU』出版、俳句ネットプリント「句具ネプリ」の定期発行、誰でも参加できるWeb句会「句具句会」の定期開催、ワークショップの講師としても活動。
2024年より俳句作品を日本語カリグラフィーで描く「俳句カリグラフィー」を、《編む》名義でスタート。新刊に『編む 台灣旅×俳句字藝』を発行。俳句ネプリ「メグルク」メンバー。
岐阜のデザイン会社「株式会社COMULA」コピーライター、編集者。1983年、岐阜生まれ。


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