
戰爭と戰爭の閒の朧かな
堀田季何
この句が警句にとどまらない理由は、この句が美しいからだ。朧という美しい季語が何故「戦争」と合うのだろうか。
恐ろしいことに、戦争というのは悲惨さを強調しなければならないほど魅力的であることがある。
古代の神話における神々の戦い。美しい鎧、英雄、戦闘機、軍歌、夢見るような勝利への叫び。わたしたちは戦いを楽しんでしまう。熱狂し陶酔する。オリンピック選手への国単位での喜びと地続きだ。
私たちが熱狂するとき、心は朧である。スポーツ選手やアイドルを推すと、嫌なことが忘れられるというのは、良いことばかりではない。現実から目を逸らしているだけかもしれない。夢や理想は美しい、それが勝利によってもたらされるならなおさらだ、Xのレスバに夢中になってしまうのも、その系譜だろう。その中で日々の暮らしや本当に弱き者への共感は忘れさられる。
子どもが『漫画世界の歴史』を読むのを嫌がったことがある。「血ばっかり出てきて嫌だ」というのだ。確かに歴史は戦争によって語られることが多い、戦争と戦争の間にある暮らしは背景として描かれる。
戦争はひとつふたつ起きているわけではない、句に繰り返される『戦争』という言葉は、単なる二地点の指定ではなく、歴史上に遍在する無数の戦争の反復を暗示している。特定の戦争ではなく起きてしまった戦争やこれから起きるであろう戦争を含めた、全ての戦争の象徴であろう。点は二つあれば線になる。三つになれば平面となり、四つ目の点があれば立体を表すことができる。
時代を超え場所を超え様々に起き続けている複数の戦争を繋げれば、時空を絡めとる複雑な立体となる。
無数の水の粒の複合体である朧のように、無数の戦争は複合体となる。戦争と戦争の間にある朧は、ある意味で戦争そのものによって形作られているとも言えないだろうか。数多の戦争によって作られた朧、それにより覆い隠されてしまう、何か。
美しい朧にも似た戦争という構造が覆い隠すのは日々の暮らしであり人々の弱さや個性的な醜さだ。個人は消え、朧のような理想の全体が蔓延する。
朧という春の夜の美しさに、この句は恐ろしさを加えた。朧という季語をより深化させた一句である。
(吉川千早)
【執筆者プロフィール】
吉川千早(よしかわ・ちはや)
長野県安曇野市在住
「澤」同人 俳人協会所属
第10回新鋭評論賞受賞
・E-mail:chihayayosikawa@gmail.com
・X @chiyochihaya