神保町に銀漢亭があったころ【第106回】後藤章

妄想の二階

後藤章(「自鳴鐘」同人)

私は友人や家内から「あんたはひとの話を全然聞いてない!」と言われ続けて生きてきました。そんな本領発揮の銀漢亭に纏わるエピソードを一つ。

当時銀漢亭には怪しそうであまり近づきませんでしたがその二階で行われていた句会にはせっせと通いました。怪しいといえばこの句会も名前からして「はてな」というので怪しさは引けを取りませんでした。

最初に伺った時、この二階を某協会のアジトと思い込みました。綺麗な事務担当とおぼしきお方がお一人と、もっと美しい女性俳人らしい方々が狭い部屋に閉じ込められていました。メンバーがまだ揃わないらしいので、待つ間大人しく座って部屋の中を見回すとホワイトボードになにやら沢山書いてあります。どうやら校正の際に間違いやすいところを書き出してるようでした。私はそこで初めて「江の電」ではなく「江ノ電」でなければいけないことを知りました。なんだか得をしたような気持ちでいるとそこに「LEON」から抜け出たような男性が現れました、それが坊城俊樹氏でした。

これでここが某協会のアジトだという妄想は確信に変わり、この原稿を阪西敦子氏にお見せした今日までそう思い込んでいました。この句会は随分続けましたがある日から突然怪しい喫茶店や正しい図書館でやるようになりました。恐らくこの時阪西さんあたりから、追い出された事情とあそこが『銀漢』の編集室だと聞いていたはずなのでしょうが、私の頭はずっと某協会アジトのままだったのです。でもこの思い込みもあっての縁でだと思いますが、この某協会よりもっと怪しい協会の怪しい役職を勤めていた私は静岡で宇多喜代子氏と坊城氏の講演会を企画した事があります。この時坊城氏が虚子の手が非常に柔らかであったとおっしゃられたのを覚えています。

さてここまで書き継いできて句会の名前が何故「はてな」だったのかやはり思い出せません。メンバーの阪西さん岸本尚毅氏も落語がすきなので「はてなの茶碗」からだったかとも思いますが定かではありません。そしてふと気づきましたが銀漢亭が無くなったと言うことはこの妄想の二階も無くなったということなんですな。残念ですが句縁絶ちがたし。少ない銀漢亭での出会いの人々とも色々なところで会って“やあ”と片手を上げて挨拶出来るのは嬉しいことであります。皆様お元気で。人の話はよく聞きましょう。


【執筆者プロフィール】
後藤章(ごとう・あきら)
「自鳴鐘」同人。



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