神保町に銀漢亭があったころ【第2回】小滝肇

シャッター

小滝肇

神保町、令和2年7月のとある日。

名画座の帰り、反対側の街区の裏通りのいつものあの店へと自然と足が向くが、そこは重い旧式の、錆びついたシャッターに閉ざされていた。

そうか閉店だったな、と「私」は一旦納得して帰ろうとするが、かすかな物音に気づき、そっと冷たい金属面に耳を当ててみると音は確かに中から発しているようだった。

不気味に思ったが、あたりを見回し、店の向かい側の駐車場の隅に転がる用途不明のバールを拾い上げ、それで無理矢理鎧状の戸をこじ開けてみる。すると縄のようなものが把手に雑に巻かれた見慣れた扉が姿を現した。

恐るおそる開けてみると、天井からぶら下がる数多の流木、不規則に天井を這うLEの配線が変わりなく「私」を迎える。店の常連客たちはもう、カウンターに片肘をついて何杯目かの酒を煽っている。その並びの少し奥寄りが「私」の定位置だ。

やあ、遅いね、とカウンターの中から俳人の女性。また店主の好みを無視してロックナンバーを流している。ストーンズの『アンジー』――そうかあの「物音」はこれだったか。客はきっちりオールバックのメーカーの部長、キャデラックの似合いそうな社長、海外を飛び回り大型回遊魚と呼ばれる商社マン、カラフルな装いの老舗百貨店勤務の女性、西海岸で活躍する翻訳家、国立大学の教授、飲み疲れを知らない俳誌の女性編集長、隅でフランス語で電話をかけている青年――。役者は十分なくらいだ。今日もみんなが観客であり、みんなが演者である細長い芝居小屋の、題目も台本もない劇が幕を開ける。

短冊を配りやおら句会を始める人、歌い出す人、踊り出す人、話し込む人、黙して飲み続ける人、眠りこける人、恋をする人、結婚披露パーティーを開く人ー。一日として同じ内容にはならない劇は、果てのないものと思われたが、ふと気づくと「私」は店の外の、あのシャッターの前にまた佇んでいた。

17年の月日は白日夢のように過ぎ去り、重たい日常をぶら下げて「私」は閉ざされた芝居小屋をあとにする。銀漢亭はもうない。

いろいろな人がこじ開けてみたのであろうか、シャッターの隅はいくつものバールの跡で歪められていた。


【執筆者プロフィール】
小滝 肇(こたき・はじめ)
1955年、広島市生まれ。2004年「春耕」入会、2014年「銀漢」 創刊同人。現在は俳誌を離れ、結社の枠を超えて作句活動を続けている。句集に『凡そ君と』(朔出版、2018年)


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