大いなる梵字のもつれ穴まどひ
竹中宏(「饕餮」)
竹中宏の句は、簡単には読ませてくれないものが多いが、この句は、「大いなる梵字」をもつれた蛇の暗喩だと思うとイメージはしやすい。あるいは、「梵字」そのものが穴に入れない、と読むことも出来る。冬を間近にしてなお闘争する蛇の煩悩、とでも解せばまたそれらしくなるだろうか。このように、言い出せばいろいろな解釈があらわれてくる句であるが、それは「饕餮」「アナモルフォーズ」という2冊の句集の題からもその姿勢が明瞭であるこの作家の、言葉の持つ多面を顕現させる手の内で踊っているようでもある。
ところで、「角川俳句大歳時記」(2006年)の「穴惑い」(立項題は「蛇穴に入る」)の解説で、中村和弘は「数匹から数十匹がどこからともなく集まり一つ穴に入り、からみあって冬を越す。彼岸すぎても穴に入らないものを穴惑いという。」と書いている。ほぼ同じ事を、講談社「日本大歳時記」(1981年)で赤尾兜子も書いている。おやおや、と思い角川「図説大歳時記」(1973年)を繙くと、またまたほぼ同じ解説を今泉吉典が書いている。今泉は、イリオモテヤマネコの研究などでしられた高名な動物学者である。おそらくこの専門家による解説が後世の解説の規範とされたかと思われる。このように書かれると、穴の中で絡み合う蛇の姿が想像され、ちょっとした興が起きる。しかし、海外ならばともかく、日本に生息する蛇で本当にそんなことはあるのだろうか?例えば、筆者の子供の頃、大きな石をひっくり返すと蛇が冬眠していたことがあって、それは一匹のアオダイショウであった。そして同じ石の反対側でヒキガエルが冬眠していて、なんともいえない気分になった。日本の蛇の冬眠の様子の可視化はNHKあたりでやってくれてそうだが未詳。国会図書館で公開されているデジタル資料『動物学雑誌』(1976年12月発行第11・12号)所収の学会発表要旨深田祝「ヘビの冬眠場所の発掘(生態)」を読むと、やはり蛇は単独で冬眠している印象を受ける。どこからともなく集まる数十の蛇とは具体的にはどこの、どの蛇のことなのだろう?
それともう一つ。この「穴惑い」という季語はどこからきたものかがよくわからない。歳時記を見ても、たとえば江戸後期の馬琴編・青嵐補「俳諧歳時記栞草」には掲載がない(「蛇穴に入」はある)。今井柏浦「詳解例句纂集歳時記」(大正15年初版)や高浜虚子編「新歳時記」(昭和9年初版)には載るから、近代のわりと早い時期に季語と認められた語かと思われるが、昭和8年刊の改造社「俳諧歳時記 秋之部」(松瀬青々編。古典校注は潁原退蔵)の「蛇穴に入る」には、わざわざ「実作注意」の項を設け、「彼岸過ぎてなほ穴に入らざる蛇を「穴まどひ」など云へる事あり。さる光景を句にするは可なれども、之を以て季題となすこと心得がたし。」とわざわざ書いてあり、「穴まどい」は題に入れられていない。つまり面白いことに、虚子がOKのものを、青々はNGとしているのである。さて読者諸氏はこの問題、どう思われるだろうか。ちなみに、先に挙げた「栞草」(岩波文庫)の脚注には、一茶「穴撰みしてやのろのろ野らの蛇」が付してあり、この句辺りのもつ風情が「穴まどい」を季語に呼び込んだ起源かもしれない。
(橋本直)
【執筆者プロフィール】
橋本直(はしもと・すなお)
1967年愛媛県生。「豈」同人。現代俳句協会会員。現在、「楓」(邑久光明園)俳句欄選者。神奈川大学高校生俳句大賞予選選者。合同句集『水の星』(2011年)、『鬼』(2016年)いずれも私家版。第一句集『符籙』(左右社、2020年)。共著『諸注評釈 新芭蕉俳句大成』(明治書院、2014年)、『新興俳句アンソロジー 何が新しかったのか』(ふらんす堂、2018年)他。