酢牡蠣食ふつるりと心晴れにけり 鈴木公子【季語=牡蠣(冬)】

酢牡蠣食ふつるりと心晴れにけり

鈴木公子

来年の4月から職務先が茨城に変わる。今の町に越してきたのは2017年の秋で、地元の次に長く住んだことになる。

この町には地元に密着した小さな書店がある。引っ越してすぐに行ってみたのだが、自分の食指のうごくようなものはその時には売っておらず、それ以来なんとなく入らなくなってしまった。

ただし、その店の前は幾度となく通った。晴れた日には店の外にワゴンが出ており、本のみならずなぜか野菜や果物が売っているときもある。通りがけついでにそのワゴンに何が入っているか、歩きながら覗いていくというのが、8年かけて培ってきた僕の習慣である。

あるとき、そのワゴンの中に俳句の本を2冊見つけた。俳句の本が置かれているというのはそれまでなかったことだったので思わず両方とも買った(そしてそれ以降もない)。1冊は富安風生の『俳句読本』(東京美術、1973年)。これは風生が俳句の心得を解いたり、添削をしたり、鑑賞をしたりといった、タイトル通りの本である。数百円で買ったが、あとでネットで調べたら100円以下で出回っていた。発行数が多いのだろう。

もう1冊は、『合同句集 谿声』(鹿火屋厚木勉強会、1993年)という本である。この本のあとがきには以下のように書かれている。


昭和五十九年六月、NHK文化センター・原裕俳句教室のメンバーを中心に、厚木俳句勉強会が結成されてから八年半が経過した。月に一度の定例句会の会報(黒沢連山氏執筆)も平成五年一月(発行)を以って百号に達する。これを記念して、急遽合同句集を刊行することになった。故人二名を加え、五十二名全員が参加。投句数は三十五句、十五句の二種類に分け、選択は自由。句も自選とした。


掲句はこの本より引いた。タイトル「酢牡蠣」とされている35句の自選句のうちのひとつである。プロフィール欄には、昭和17年生まれ、句歴7年と記されている。

酢牡蠣を食べたときの嬉しさが、衒いなく述べられている。「つるり」という言い回しに牡蠣のたしかな質感を感じる。さらに、ただの牡蠣ではなく「酢牡蠣」であることで清涼感が加わっている。心の中のもやもやを酢牡蠣の美味しさがきれいに拭い去っていってくれたかのようで、きっぱりとした調べと合わさってとても気持ちがいい句だと思う。

この句とセットで僕が覚えている愛誦句がある。今回はそちらの句も紹介したい。『鍵和田秞子の百句』(藤田直子著、ふらんす堂、2020年)より引用する。

牡蠣を吸ふ身ぬちの闇を大切に

同じ季語を扱いながら、「酢牡蠣食ふ」の句とは全く反対のことを言っている。これらの句を並べると、「季語が動く」というのは季語それ自体の問題もあるかもしれないが、実は季語以外の言葉の選択の問題もあるのではないかとつくづく思う。

例えば、こちらの鍵和田秞子の句では、「身ぬち」という言い回しから牡蠣の「ぬちり」としたちょっと不気味な質感が連想されないだろうか。また、それを「食ふ」ではなく「吸ふ」としたことで、うっかりすると外へ漏れ出てしまう心の闇を身のうちに留めておこうとする意思が見えるような表現になっている。

自身の所属している麒麟俳句会には「闇に呑まれるな」という教え(?)がある。ここで言われている「闇」のニュアンスはさまざまにあるのだけれど、ともかく重要なのは闇を抱えること自体は否定されていないということである。僕はこっそり、この句に「麒麟」の教えと通じるところがあるのではないかと思っている。自身の闇を適切に飼い慣らすというのは簡単なことではない。ただ、その闇に牙を剥かれるリスクを抱えつつ、そうした飼い慣らしにひとり秘めやかに励むというのは、少なくとも詩歌をつくっていく上では大切なことなのではないだろうか。この句はそういうことを教えてくれているような気がする。

「酢牡蠣食ふ」と「牡蠣を吸ふ」の句をセットで覚えている理由は他にもある。萩原朔太郎は『月に吠える』の序でこう述べている。


私のこの肉体と感情とは、もちろん世界中で私一人しか所有して居ない。またそれを完全に理解してゐる人も私一人しかない。これは極めて特異な性質をもつたものである。けれども、それはまた同時に、世界の何ぴとにも共通なものでなければならない。この特異にして共通なる個々の感情の焦点に、詩歌のほんとの『よろこび』と『秘密性』とが存在するのだ。この道理をはなれて、私は自ら詩を作る意義を知らない。

三好達治選『萩原朔太郎詩集』(岩波文庫、1952年、69頁)


僕はこれまたこっそり、「酢牡蠣食ふ」の句を『よろこび』に、「牡蠣を吸ふ」の句を『秘密性』に対応させ、「詩歌悟ったり」とにやにや楽しんでいたことがある。前者の句はまさしくよろこびにあふれている。後者の句は秘密性の大切さを述べている。ふたつの牡蠣の句を知ったあとに朔太郎のこの文章をたまたま再読したとき、詩歌の二面性という朔太郎の主張を実作によって体感した気がして嬉しくなったのだ。

その感触は必ずしも間違いではないと今でも思っているのだが、最近、「そんな簡単な話でもないな」とすこし考えを改めるようになった。

なぜかというと、「牡蠣を吸ふ」の句にも詩歌の『よろこび』があるような気がしてきたからである。心の闇を「完全に理解してゐる人」は私ひとりしかいない。ただ、心のうちに闇を抱えていて、その闇を大切にした方がよい人は私ひとりではないだろう。この意味で、鍵和田秞子の句は「世界の何ぴとにも共通なもの」を詠んでいると言える。その共通性に触れたときに感じられる『よろこび』が、「牡蠣を吸ふ」の句には秘められているということだ。一方で、「酢牡蠣食ふ」の句においてつるりと晴れた心が、「世界中で私一人しか所有して居ない。またそれを完全に理解してゐる人も私一人しかない」ものだとすれば、これは『秘密性』を帯びた句ということになる。

ふりかえると僕は、「酢牡蠣食ふ」の句が明るく、光のイメージを喚起させるのに対し、「牡蠣を吸ふ」の句には闇が詠まれているために暗いというだけで、前者を『よろこび』に、後者を『秘密性』に短絡してしまっていたのだ。実際はその逆の組み合わせが、すなわち「暗いよろこび」や、「明るい秘密性」といったものが、少なくとも詩歌においては考えられるのではないか。

「暗いよろこび」はまだしも、「明るい秘密性」というのは直感的には理解しにくいところがある。本当にそのようなものがあるのだろうか。ただフレーズを組み替えただけの言葉遊びではないのか。朔太郎の文章をきちんと読み直しつつ、このことについて考えるのはこれからの自身の課題である。ただ、先に「闇に呑まれてはいけない」ということについて述べたが、俳句を続けていると、むしろ「光にも呑まれてはいけないのだ」と感じることがある。

というのも、「麒麟」の句会では、しばしば「よろこびすぎている」という理由で主宰からの選をのがすことがあるのだ。闇ならぬ「光を大切に」できていないということなのだろう。俳句をつくる上で、闇だけでなく光も自身に牙を向くことがあるという可能性は肝に銘じておきたい。「明るい秘密性」は、その光を飼い慣らした先に育まれるもののような気がする。

田中木江


【執筆者プロフィール】
田中木江(たなか・きのえ)
1988年: 静岡県浜松市生まれ
2019年: 作句開始
2023年: 「麒麟」入会 西村麒麟氏に師事
2024年: 第1回鱗kokera賞 西村麒麟賞 受賞
2025年: 第8回俳句四季新人奨励賞 受賞



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