【書評】小池康生 第2句集『奎星』(飯塚書店、2020年)

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もうひとつのアウトロー俳句
――小池康生『奎星』(飯塚書店、2020年)――


 本書は、「銀化」同人・「奎」代表の第二句集。京都・洛南高校の俳句創作部の外部コーチを務めていることもあり、2017年に関西の若手俳人の受け皿として、季刊の俳句雑誌「奎」を立ち上げてから、最初の句集ということになる。第一句集『旧の渚』からの8年間のあいだに、著者は大病を患ったことが窺われ、帯文にも中原道夫(「銀化」主宰)のこんな手書きの文字が見える。「大患を得た人間は俳句も変わるようだ。変わらざるを得ない状況は、未踏の視座を獲得するからだ」。

 作者の人生に寄り添うならば、著者を襲った病を核として本書を読み解くことが最も素直な態度であるだろう。しかし、この作者の第一句集からの展開をここに分析的に述べることは、おそらくわたしの仕事ではないだろうし、そもそもこの第二句集は、少なくとも表面上において、それほど境涯的であるわけでもない。ここでは、一冊の本として、そこに収められた句の数々を、虚心坦懐に味わってみたい。

 さて、この句集の最大の特徴に感ぜられるのは、小池康生という作者は、〈ぎりぎり〉を狙う男だということだ。野球のピッチャーの仕事に喩えるならば、ホームランの打たれやすい真ん中高めにボールを放ることはまずない。また、ぎりぎりといっても、打者を威圧するようなインコース高めを狙うこともない。スライダーのような変化球で、アウトコースのぎりぎりに落とすのである。そう、これはもうひとつの「アウトロー俳句」なのだ。

  ストローの先で回るや石鹸玉

  一睡につづく一睡ちるさくら

  夕方のてまへの時間合歓の花

  あをぞらの四隅を引きて御慶かな

  四隅まで使ひきつたる汗拭

 ふつう、石鹸玉といえば、句中を漂っている。しかし作者は、句中に泡が飛び立つ直前ぎりぎりの、ストローの先っちょ〈ぎりぎり〉を攻めている。しかも、そこで回っている(ように見える)という眼も効いている。二句目は入院中の、おそらく手術直後か薬投与中の景であろう。ふたつの「一睡」のわずかな隙間〈ぎりぎり〉。そして「ちるさくら」。三句目は、なんとなく夕方の似合う合歓の花を、「夕方のてまへ」で詠み止めた〈ぎりぎり〉感である。

 本句集は三章立てだが、四句目、五句目が収められている第二章が「四隅」と名付けられているのは、この言葉が用いられた句が二句もあったからにほかならない。「四隅」とは、さきほどの野球の例をふたたび持ち出すまでもなく、〈ぎりぎり〉の言い換えである。

 全体としてユーモアに満ちた句集に「銀化」仕込みの俳味が感じられるというのは、いかにも雑な物言いになるかもしれないが、疑いえない。しかし、中原道夫のような見立てや比喩の句はほとんどなく、また素材に選ばれているのも、あくまで大阪を中心とした作者の生活圏であり、旅吟と思しきも少ない。前書がついた句はたったのひとつであり、基本的にこの作者が、句座――教え子の若い仲間たちを含む――を大事にしていることがよくわかるつくりだ。わたしのような人生経験が浅い人間にも、共感できる句、納得できる句が並ぶ。

 句座を楽しませてくれる作風。そんな言い方もできるだろう。けっして派手な素材を使わず、庶民的で日常的な風景を、手を替え品を替え、時に重厚に、時に軽やかに、そして明るく描き出す。このような作者と句座を共にできる若者は幸せだ。「奎」の編集長として小池を支える仮屋賢一に対しては、こんな句が収められている。この句集で唯一、前書きが付された句である。

   仮屋賢一君の誕生日を祝い
  仮の世に飛込みしぶきみあたらぬ

 苗字から「仮」の漢字を詠み混んだ一句であるが、おそらくそれだけはない。この句が彷彿とさせるのは、小池の師である中原道夫の次の一句だからである。〈飛込の途中たましひ遅れけり〉。垂直に落下するスピードによって、人間の精神と肉体が分離してしまう様子を詠んだ一句だが、これとは対照的に、小池句は精神と肉体が――古臭い言い方をすれば、心技体が――見事な調和を遂げている。

 「仮の世」は、辞書的にいえば現世のことだが、実際のところは、仮屋の就職の時期に詠まれた句、あるいは「奎」の立ち上げに際して詠まれた句だろうか。いずれにしても、親子ほどに年が離れている仮屋の知性に、小池は賛辞を送っているのである。ただし、肝心の「サゲ」も忘れていない。すぐ左には〈打ち水が下手で京大行つたらし〉という句が置かれている。

 芸達者である小池は、「仮の世」の俗な部分を、絶妙に切り取った句も多い。たとえば、こんな句だ。

  着膨れて家賃を取りにゆく大家

  いくつかは老舗で揃へおでん種

  一本も見ずに延滞鳥帰る

  大相撲土俵をまはる永谷園

  ボジョレヌーヴォー壁に直接描くサイン

 日常のなかでも自然ではなく「人」に関して目の効いた句。アパートを複数経営しているような大家は、それなりの高齢か。大阪にはきっとおでん種を売る老舗もあるのだろう。家で作ることのできないちくわやがんもどきなどは買うのだろうが、大根や卵は自前で用意しようとしているのだ。贅沢とつつましさの〈ぎりぎり〉のせめぎ合いだ。三句目は、サブスク全盛となった今では、DVDをレンタルすることもましてや延滞することもなくなりつつあるが、しかし数年前までは、こんなことがよくあった。延滞金の額によっては、しばし立ち直れないことだってあったのだ。

 こんな俗な場面を切り取った句もあれば、どちらかといえば聖に傾いた句もある。第一句集刊行後に、枚方神社から連絡があり、句会をもつことになった、というのが「あとがき」の冒頭にあるエピソードだ。

  蛇祀る大木に未だ蛇を見ず

  参道の箒目に雪混じりをり

  福笹を納めて妻の礼長く

  霊魂の戻るかたちに滝凍つる

 いずれもクラシックな句であり、直球勝負の句だ。ただ、句集のなかにこのタイプの句は、けっして多くはない。あくまで作者の本領は「かるみ」である。しかし「重み」がなければ、「かるみ」は際立たないことを、彼は熟知している。いつもふざけているばかり人間が、ふと真面目なことを言う、あるいは逆に、ときに真面目なことを言うからこそ、その笑いを信頼することができる。昔から、道化は王に真実を告げるために存在してきたのだ。この句集を読んでいると、作者のそのような考えが伝わってくる。小池の〈ぎりぎり〉は、道化の語る真実なのである。

  ここからは寝酒と呼んで続くなり

  他人はまだ寒いと言はぬ寒さかな

  食道を持たぬ形代流しけり

  チューリップの力抜ければすぐに伐る

 一句目の面白さは、「ここからは…呼ぶ」という作者の身勝手さにある。「続く」というのだから、その前からずっと飲んでいたのだ。自宅に招いた客人が帰ったあとのひとり酒だろうか。あるいは、妻とのふたり酒だろうか。いずせにせよ、通常なら寝酒ではないものを寝酒であると嘯いているのだ。二句目も同様で、ほかの人は「寒い」とは言わない環境を、自分はすでに寒いと感じてしまっている。その「寒さ」は、三句目のようなイメージと通じている。大患とは、食道癌か何かなのだろう。あるいは、四句目のように、植物の末期に敏感であることともつながっている。

 しかし判断が難しいのは、俳句が最終的には技巧でもあるために、結果として、この魅力的な〈ぎりぎり〉が、「始まり/終わり」のようなワードによって表現されることが多くなっているという点だ。〈ぎりぎり〉は、本句集の特徴ともいえるだろうが、表現の上ではパターンに陥りやすい。

  巣箱掛け最初の雨が降つてをり

  止んでより気になつてきし虫の声

  色鳥の入口となる一樹かな

  長文を詫びてはじまる秋の風

  国栖奏を終へて日の指す吉野山

 あるいはまた、〈ぎりぎり〉は、否定表現となってパターン化されやすいという面もある。

  苗札のなきものばかり咲きにけり

  参道の柵なき崖や国栖の笛

  なによりぞ人見ずに済む八重桜

  風なくば風なきやうにちるさくら

  時の日の川になる水なれぬ水

  外出はせぬがよそゆき大旦

 パターンに還元される句が、すべて悪いというのではない。たとえば、最後の〈外出はせぬがよそゆき大旦〉は、外には出ないが晴着を着るという折目正しさを伝える見事な一句だろう。繰り返すが、この知的なズラしが小池康生の持ち味なのである。難癖をつけているわけではないので、あしからず。

 さて最後に、わたしがとくに印象に残った句をいくつかあげて筆を擱くことにしたい。

  一睡につづく一睡ちるさくら

 すでに取り上げた句だが、やはりこの句集の前半で、最も美しく、目を引く一句である。細切れながらもつづく睡眠と、散りゆく桜の花の断片。散っては戻らぬ桜の花と、少しずつ癒えゆく肉体。ただ、こういう耽美的でロマンチックな句は、切り札のようなもの。この句集に安定をもたらす「重み」となっている。

  海の家扉代わりの紐はづす

 これも内側と外側を分断する「扉」というぎりぎりの存在に目をつけながら、その「紐」を「はづす」というさらにぎりぎりの瞬間を描いている。一本の紐が「扉」になってしまうというのは、「一睡」が「ちるさくら」の断片と重ね合わされ、紙一枚であるはずの「形代」にも当然、自分の身代わりなのだから食道がないだろう、という想像力と通じている。実のあるメタファーだ。

  唐辛子売るや辛さを詫びながら

 こういう矛盾を引き出すのは、小川軽舟なども得意とするところだが、小池康生もうまいと思う。本来、唐辛子は辛いもので、それを売っている商人が「詫びる」必要など一切ないはずだが、詫びているというのだから十分におかしい。

  演り終へて正直な顔スケーター

 これはスピードスケートではなく、フィギュアスケートだろう。フィギュアを詠んだ句というのは、めずらしい。「正直な顔」というのは、緊張の張り詰めた数分間の終わった瞬間に、脱力する顔のこと。そのせいか、この句を読んでいても「ほっ」とするのである。

  シーソーに妻から浮いて夕桜

 妻から浮くということは、妻が低く落ちている側にまず乗り、高く上がっているほうに自分がまたがるということ。男女の体格差を考えれば当然なのだが、大人がふつうは遊ぶことのないシーソで「レディ・ファースト」をするというのが味。同じ章には、〈妻に遺す時間みじかく夕花野〉という句が対句のように隠されていて切ない。

 最後にいうが、この句集のクライマックスは、106-107ページだ。もちろん、これはわたし個人の感慨にすぎないわけだが、まず最初の句をひこう。

  立春の草冠を分けて書く

 ここではブラウザの制限の関係で再現することはできないが、「草」の字体の部首は4画の「+ +」形である。もちろん、立春というのは「下萌」を経て、さまざまな植物が芽を出し始める季節。だからこその「くさかんむり」へのこだわり。知的ユーモアがある。

  春の雪ケーキ倒してから食べる

 先日、ここに書評を書いた太田うさぎの句集『また明日』(左右社、2020年)のなかに、〈三島忌の倒して食べるケーキかな〉が収録されているのだが、こんなふうに同時期に刊行された句集に類似句が見られるのは、じつに興味深い(まったく瑕疵ではないとわたしは考える)。「春の雪」は、三島の小説タイトルのひとつ。なぜ「倒して食べる」のかというと……無粋なので言い控えておこう。そして、この106-107ページのいちばん左に位置しているのが、この句である。

  おほさかの隅の隅なる菜の花忌

「菜の花忌」は、司馬遼太郎の忌日で 2月12日。司馬遼は、大阪市生まれの歴史小説家である。墓所は、京都市東山区にあるが、東大阪市には司馬遼太郎記念館があり、そこで隔年で「菜の花忌シンポジウム」が開催されている。会場には全国から贈られた菜の花が飾られ、終了後、入場者に配られるという。そこには、「隅の隅」という大阪の〈ぎりぎり〉の、黄色い光に溢れる〈明るさ〉が凝縮されている。


【執筆者プロフィール】
堀切克洋(ほりきり・かつひろ)
1983年生まれ。「銀漢」同人。第一句集『尺蠖の道』にて、第42回俳人協会新人賞。第21回山本健吉評論賞。2020年9月より「セクト・ポクリット」を立ち上げて、不慣れな管理人をしております。



【セクト・ポクリット管理人より読者のみなさまへ】

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