【書評】太田うさぎ『また明日』(左右社、2020年)

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〈日常〉のなかのワンダーランド
――太田うさぎ『また明日』(左右社、2020年)

ちょうど10年ほど前、「銀漢亭」に二度目か三度目に足を運んだ折に、カウンターにいた人たちが、急に句会をはじめだして、そのときすぐ横にいたのが太田うさぎさんだった。

「せっかくだから、つくってみなよ」と言ってくれたのが、うさぎさんだったかどうかはよく覚えていないのだけど、「じゃあ15分後に3句出しね」的なノリでアナーキーにはじまったのが、私にとって人生初めての句会となったのだ。とはいえ、すぐに俳句を本格的にはじめたわけではなかったので、今から思えば、10年前の自分にそっと耳打ちしてあげたい。10年後に、こんな素敵な句集がうさぎさんから届くんだよ、と。

【不思議の国のアリスのように】

この句集のあとがきの冒頭には、一人暮らしをはじめた小さな町のスナックで俳句と縁をもったと書かれている。「あの夜あの扉を開かなければ、しがない事務職員が俳句というワンダーランドに足を踏み入れることはなかったし、四半世紀近く後にこのあとがきを書くこともなかった」。しかもこの句集の末尾には、仁平勝による「解説」が付されている。うさぎさんは仁平さんの筋金入りのファンだったらしく、「タイムマシンで戻れるならば、『俳句研究』の氏の時評を貪り読んでいる自分に『この先驚くようなことが待っているよ』とそっと耳打ちをしたい」とある。

そろそろ句集について書き始めなければならないが、いまの「タイムマシンで」という何気ない一言が、ひっかかっている。あるいは、「ワンダーランドに」という何気ない一言が、やはりひっかかっている。この作者にとって、ある場所からほかの場所に投げ出されてしまうようなSF的な感性、あるいはルイス・キャロル的な感性が、根源にある気がしてならないのだ。

具体的にいうと、太田うさぎの句の特徴として、〈ある場所に出ること〉がとても象徴的な意味を担っているように思える。まるで、曲がり角を曲がったとたん、まったく違う景色が広がっていることに気づく驚き。それは誰にでも体験があることなのだけれど、それと似たような驚きが、太田うさぎの次のような句には隠されている。

  もう春が終はつてしまふ来々軒
  商標の輝いてゐるバナナかな
  西日いまもつとも受けてホッチキス
  たんぽぽの絮が松屋へ吉野家へ
  傾城の髷の涼しき切手かな

上のようなタイプの句では、下五の「来々軒」「バナナかな」「ホッチキス」「(松屋へ)吉野家へ」「切手かな」というところで、思わぬ場所に連れていかれる感がある。予定調和的ではないというだけではなく、そこにはまぎれもなく、愛すべきくだらなさが、まとわりついている。

【「愛すべきくだらなさ」のある句集】

 以下のようなタイプの句は、そのような「愛すべきくだらなさ」がもう少し言葉のほうに接近したような句だろう。

  遠泳のこのまま都まで行くか
  なだらかな坂数へ日のとある日の
  きつねのかみそり迷子になつてゐないふり
  夏帽子振つて大きなさやうなら
  島を出て島の花火を眺めよう


これらの句の「まで行くか」「とある日の」「ゐないふり」「さやうなら」「眺めよう」というゆるやかな結び方は、それほど大きな意味内容をもっていないが、作者の「語り方」(ディスクール)としてみると、先ほどの5句とは決定的に異なっていて、いわば「物語の語り手」としての発話者が前景化している。自己を戯画化しているともいえようか。だから、描かれる場面としては、それほど驚きがないのに、その語り方に「きゅん」としてしまうのだ。

【俳句は中七じゃない、下五である】

総じて、太田うさぎの俳句は、17音の最後にその魅力を凝縮させていることが多い。「俳句は中七」とも言われることもあるけれど、彼女は「いやいや、俳句は下五でしょ」といわんばかり、なのだ。

  彼が下げ夕張メロン上京す
  入社式なんてさ西武ゆうえんち
  サボテンの花打つ世紀末の雨
  三島忌の倒して食べるケーキかな
  薄原きらり少年とは速度

必ずしも下五とは限らないが、意味内容のバランスから見れば、後半に加速していくようなグルーヴ感のある句が並ぶ。別の角度からみると、この加速度に貢献しているのは、聖俗ないしは公私のバランス感覚である。

たとえば、「入社式」という〈公〉的なものをズル休みして、〈私〉的にゆうえんちに遊ぶという落差。しかもこの「西武ゆうえんち」という微妙な塩梅。ディズニーランドでは絶対にダメだ。

あるいは、「三島忌」から「ケーキ」に遊ぶという落差。この句に関してはたまたまですが、「倒して食べる」という中七のつなぎが絶妙。なぜこの言葉が「つなぎ」になるかは、説明するのは野暮なので、もちろんしません。

【左脳的なウィットの見事さ】

俳句では、美しいものを美しく、懐かしいものを懐かしく描く作家もいれば、ありふれたものを奇妙に、あたりまえのことをおかしく描く作家もいる。しかし太田うさぎの俳句は、最終的に「表現の面白さ」という、きわめて左脳的なウィットに向かっていく。それは解説のなかで仁平が、ともに囲んでいる句座で青蜜柑という題がでたとき、即座に「青蜜柑酸っぱしいまさら再婚など」とつぶやいた、というエピソードにもよくあらわれている。

  煤逃の円をユーロに替へにけり
  鼻が邪魔ソフトクリーム舐めるたび
  父の日やテレビの中に雨が降り
  桃あんず再放送のやうな午後

一句目は、個人的にも思い入れのある句で、私が二〇一三年にパリ留学をして、句会ができなくて袖を濡らしていた同年末、うさぎさんは、何人かの句友とともに、パリまで遊びにきてくれたのだ。

もしやと思って、そのときの句会報をひっぱりだして見てみたら、案の定、採っていた句だった。

この句が入っているというだけで涙が出るほどうれしいのだけど、こうしてうさぎさんの句業のなかにこの一句を置いてみたとき、「煤逃の円」という(さりげない)「表現の面白さ」がやはり生きている、と思う。

「鼻が邪魔」という断言も、一句のオリジナリティを保証している。「父の日」は六月の日曜日だから、「テレビの中の雨」というのはゴルフか競馬あたりなのかもしれないけれど、「父の日」の「父」たちが雨に降られているという光景が、ちょっとおかしいと作者は感じたのかもしれない。

「再放送のやうな午後」という「表現の面白さ」は、ワンダーランドと好対照をなすような物憂げな日常。「桃あんず」を剥きながら部屋で過ごす夏の一日の外にキャメラを置き、客観視してるところが「ディスクールの面白さ」である。

【「巧さ」と「芸」と「自在さ」と】

すでに太田うさぎは『俳コレ』のなかに収められた座談会で、圧倒的といえるほど、好意的な評をもって迎えられていた。高柳克弘は「本当に自由自在な作家で」といい、上田信治は「ものすごく洒脱」な「成長したお嬢さん芸」といい、関悦史は「世界とじゃれているような、それで郷愁とか懐かしさとかを確かめている感じがあって」という。池田澄子は「で、やたら上手なんですね。『ここがここが』とは言ってないんだけど、自然にほどよく上手で」という。

そのような「巧さ」や「芸」や「自在さ」を保ちつつ、句集『また明日』のなかで注目に値するのは、〈日常〉そのものがべつの〈日常〉を異化しているという点ではなかろうか。

  狐火や水にひろごる酢のごとく
  そら豆のやうなる月へ歩くかな
  ぴゆつと出て鴨南蛮の葱の芯

通常、わたしたちは日常が退屈で、そこに驚きや、意外性や、発見を求めようとするのだが、たとえば「狐火」という非日常さえも「水にひろごる酢」という静けさのなかに、古来から詠まれてきた「月」という季題は「そら豆」という小さなものに、そして熱々の「葱」のなかを飛び出した「芯」は、まるで鴨南蛮の鴨を狙う矢のように解き放たれる。池田澄子が、「『ここがここが』とは言ってない」といっているのは、こういう部分だろう。

【「今日」とは違う「明日」のために】

つまり、ワンダーランドは〈日常〉の外側に、ではなく〈日常〉のなかにあるということだ。したがって、「また明日」というのは、平穏な日常の反復を肯定しているわけではない。そこに劇的な事件は起こらないかもしれないが、むしろ「明日」は、「今日」とは違う一日がきっと待っているという信頼のなかで、これらの句は書かれている。句集のなかで、それを象徴しているのは、たとえば次の一句である。

  美人の湯出てしばらくを裸なり

洗練されたシンプルなデザインの装丁の向こう側に、素っ裸で仁王立ちしているうさぎさんの姿が浮かぶ。その視線の先には、やはり「今日」とは違う「明日」があるのだと思う。

【執筆者プロフィール】
堀切克洋(ほりきり・かつひろ)
1983年生まれ。「銀漢」同人。第一句集『尺蠖の道』にて、第42回俳人協会新人賞。第21回山本健吉評論賞。

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