梅ほつほつ人ごゑ遠きところより
深川正一郎
一月はあっという間に去って、春立つ今週、気温とは無関係に風があかるくやわらかい。
「水星逆行」という占星術上の(?)現象があって、年に三回ほどあるその期間は通信や交通やコミュニケーションやらという、「往来」にあたるものが滞るという。もともと「往来」の便利さにすれすれに救われて、ぎりぎりで暮らしている人間にとって、それが滞ることはほとんど命取りだ。
連絡、なかでも断りの連絡がなかなかつかず、ついたと思ったらひっくり返され、そのしわ寄せでほかのことがまた滞る始末。「全部、もう知らないや!」という前向きな立春気分が横溢して…そんな金曜ですよ。
このハイクノミカタは、「もう知らない「全部」」の内には入っていない。どちらかと言えばその逆で、今週どうしようかなと句集を読む時間は、おいしいものを食べているときや、それに合うお酒を飲んでいるときの幸福感と、ほとほと等しい。これがあるからやってられるという種類のもの。
食事や酒と違うのは、物理的に満腹することがないので、前に取り上げた句集をもう一回読んでしまったり、当てを付けていた句集に別の季節の取り上げたい句があったりすると、一回の執筆に対して読む句集の数が一冊ではなくなってしまう。今日取り上げる句も、そんな2冊目の句集のうちの一句。
『正一郎句集』は深川正一郎(1902~1987)の第一句集。十三年間の虚子選のうち、さらなる厳選六百七十句をもって作られたもの。季節ごとに並ぶ句のうち、「桜(桜の意味での花や花冷など)」を含む句が三十九句のところ、「梅」の含まれる句は二十三句を数える。
掲句はその二十三句の最初の一句、一連の梅の句の最後では散ってゆく梅の、ほんの咲き始めの様子。去年、梅の季節はまだ、コロナウイルスの話を聞きながら、日本はそんなには深刻な状態にはなかった。今年の梅がはじめてその事態の中を咲き、その事態の中、私たちが見る梅ということになる。
花と言えば今は桜とされているけれど、それ以前、花と言えばそれは梅であった。あらゆる季節の動きに先駆けて開く花であれば、それは小さくとも「花」の名にふさわしい。個人的にも、なにか梅は、もう大丈夫というようなほっとする花。今年はまだ、花屋以外では見られていない。
「ほっと」と「ほつほつ」はどう関係があるのかわからないけれど、「発」「初」などを考えれば、何かを割って出るようなそんな響きを思う。
目の前には、ほつほつ(梅の表現としては平凡だ)と空間を押し広げる花びらと香りがあって、その向こうから近づいてくる人の声がする。景色としても、句の言葉としてもありふれたものだけれど、花の傍らにある視点と、近寄ってくる人間とを比べれば、作者の立ち位置はあくまでも梅の側。
単に、梅のそばに立っているひとりとして鑑賞することもできるけれど、春の初めを咲く梅のこととすれば、梅の出現とともにそこに現れた、なにか人の側ではない、梅と一体な視点とも感じることができる。
句集中、梅はだんだんとその勢いを増し、増すことは終わりに近づくことでもある。
対岸に梅の寺あり造船所
として、街の風景になじみゆき…
満開の梅暮れて行く家居かな
家居の時間とともに闇に紛れてゆく。
どこか近くで梅の木を見つけないと、季節が滞る気がしてきた。
こんなに自分にとって梅が大事だとは思ってもみなかった。いや、今年だから大切なのか。
(阪西敦子)
【執筆者プロフィール】
阪西敦子(さかにし・あつこ)
1977年、逗子生まれ。84年、祖母の勧めで七歳より作句、『ホトトギス』児童・生徒の部投句、2008年より同人。1995年より俳誌『円虹』所属。日本伝統俳句協会会員。2010年第21回同新人賞受賞。アンソロジー『天の川銀河発電所』『俳コレ』入集、共著に『ホトトギスの俳人101』など。松山市俳句甲子園審査員、江東区小中学校俳句大会、『100年俳句計画』内「100年投句計画」など選者。句集『金魚』を製作中。
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