蛇を知らぬ天才とゐて風の中 鈴木六林男【季語=蛇(夏)】


を知らぬ天才とゐて風の中

鈴木六林男
(『荒天』昭和24年)

蛇を2匹飼っている。どちらもコーンスネークという品種で、アオダイショウのアメリカ版といった形の蛇である。

こちらはオスのタッシュくん。雨の日に我が家にやってきたのでアラビア語で「雨」という名前をつけた。ケージを散らかしまくる。先週は水入れをひっくり返し、水浸しになってあたふたしていた。

こちらはメスの春ちゃん。意図的にやっているかは不明だが、頭が良くケージを散らかさないので掃除が非常に楽。

彼らを見ると、色の違いに驚く人が多い。コーンスネークは交配による色調操作バリエーションの豊富さが魅力であり、日々愛好家により新色の作出が試みられているのだ。ちなみに、タッシュくんは原種と同じ色である(模様は異なる)。

蛇を知らぬ天才とゐて風の中
鈴木六林男

天才と呼ばれる人はしばしば、ごく常識的なことを知らない。それは天才の弱点であり、また同時に天才が天才たる所以でもある。

ときおり、天才という評価が失礼にあたるという意見を聞く。実際、天才という言葉が「常人と比較して努力をすることなく一定以上の水準に達した人」というニュアンスを含むことは事実であり、受け手の心情を踏まえるとまっとうな指摘ではあると思う。ピアニストやプロスポーツ選手などの世界は天賦の才を与えられた人が常軌を逸した努力を重ねた末に辿り着く境地であり、安易に天才と呼ぶことは自重したいものだ。

とはいえ、やはり「天才」としか言いようのない人物は存在するし、そうした人が持つスター性に憧れてしまうのもまた人である。

自分が紛れもなく「天才」と評したいのは、巨人で活躍したプロ野球選手の高橋由伸である。彼は「ストレートと変化球をどう見分けて打っているのか?」という問いに対してこう答えた。

“相手ピッチャーが足を上げたら自分も足を上げる。投げられたボールがストレートならそのまま打てばいいし、変化球だったら「あ、変化球だ」と思っているうちに若干反応が遅れてちょうど変化球のタイミングになるからそのまま振ればいい”

これを天才と呼ばずしてなんと呼べばいいのか。自分がプロ野球選手を目指している時にこの言葉を聞いたなら、野球を辞めてしまうかもしれないほどの破壊力がある。

天才の苦悩、凡人の苦悩。互いに分かり合えることはないのかもしれないが、通じ合うことはできる。それは理屈によってではなく、同じ風の中で同じ景色をただ眺めることで生まれてくる繋がりなのかもしれない。

細村星一郎


【執筆者プロフィール】
細村星一郎(ほそむら・せいいちろう)
2000年生。第16回鬼貫青春俳句大賞。Webサイト「巨大」管理人。


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