【読者参加型】
コンゲツノハイクを読む
【2023年8月分】
ご好評いただいている「コンゲツノハイクを読む」、2023年もやってます! 今回は11名の方にご投稿いただきました。ご投稿ありがとうございます。(掲載は到着順です)
花下微笑己が余命を知らぬげに
平田冬か
「かつらぎ」2023年7月号(通巻1123号)より
古典落語「死神」では寿命は蝋燭の長さ。主人公は正に燃え尽きんとする火を新しい蝋燭に継ごうとして失敗する。この話では死神の怒りを買ったがために己の蝋燭を見せ付けられるのだが、現実には通常は知ることはできない。例外的に知ることとなるのは、癌等で医者から余命を宣告されたとき。
桜は死を意識させる花だ。毎年花を待ち花を惜しむ。そして見る度に来年も見ることができるだろうかという思いを抱かせる。掲句は、今年の桜が最後になることを知りながらそんな素振りも見せずに花の下で微笑んでいる人を詠んだ。知っているのは本人のほか作者を含めて僅かだ。知るということは辛いことだ。
(種谷良二/「櫟」)
葉桜の磴下り来し桶の稚魚
湯谷良
「火星」2023年7月号(通巻1002号)より
葉桜の石段
初夏の葉影は石段に青く落ち、日の斑が美しい
そこを下りてきたのは桶に入った稚魚
来しの「し」が良いです
連体形で桶に繋がってはいますが、「下りてきた」ところの「桶の稚魚」という「ちょうど今」の境が映像の切り替えをスムーズにし、桶の稚魚のアップをクリアに見せてくれます
桶の水面は揺れており、日の光が緩やかにうねっています
稚魚はその滑らかな光に身を透かせているのでしょう
助動詞の「き」「し」は私には難しく、いつも悩むのですが、その働きを実感する句に出会えて、少し理解に近づけた気がします
(土屋幸代/「蒼海」)
薔薇散るやラ行は舌を踊らせて
伊藤美紀子
「秋麗」2023年7月号(通巻154号)より
ばらちる ちるる
はらはら らるら
べろるり らるら
おどらせて
せらせら せせら
けせらせら
はなびら べらびら
べろみたい
べろれる ゆられる
ばらちる るるる
べろらる りべらる
おどらせて
はなびら りべらる
べろみたい
べろらる べりる
おどらせて
せらせら れれれ
けせらせら
ばらちる ちるらむ
らりるれろ
(月湖/「里」)
麻酔より醒め遠雷を拾ふ耳
佐野瑞季
「雲の峰」2023年7月号(通算385号)より
全身麻酔を受けたことが一度だけあるので、麻酔から醒めた日の空に遠雷があった場合を想像しながら読みました。注目したのは、遠雷を聞くと拾ふの違いです。聞くにすると、遠雷の音だけが右から左へすこーんと抜けていく空気みたいで物足りない。遠雷の存在感が薄くなってしまいました。拾ふにすると、耳が手に取るように掴んできた遠雷の音が耳の奥まで響き、遠雷の閃光で全身が熱くなり、麻酔から醒めている命を体感することができました。聞くと拾ふ。極小の詩型の中にある数文字の違いは、ものすごく大きい。
(高瀬昌久)
ソーダ水半分づつの減らぬまま
島谷高水
「銀漢」2023年8月号(通巻150号)より
二人は恋人同士。カンヌ国際映画祭脚本賞を受賞した、「怪物」を映画館で見た帰りである。喫茶店でソーダ水を注文して、感想を語り合う。教師にいじめられたいう息子の湊の言葉を信じて、学校に乗り込む母の早織。その応対に能面のような表情の校長伏見。教師の保利はいじめはしていない。それぞれの立場はどうだろう。いじめっ子にいじめられていた依里。依里に惹かれる湊。二人の秘密基地の廃電車。「カイブツ、ダーレ」の依里の言葉。「怪物って、何だろう、だれのこと」二人は話し合う。依里と湊はどうなるのか、会話が盛り上がって、ソーダ水は半分へらぬままテーブルの上にあるのである。
(加瀬みづき/「都市」)
麻酔より醒め遠雷を拾ふ耳
佐野瑞季
「雲の峰」2023年7月号(通算385号)より
「拾ふ耳」が決まっている。特に「拾ふ」の措辞が素敵。麻酔より醒めたことは意識できているが、自分の身体の一部であるはずの「耳」は自分とは別の装置のようでもあり、器官と心とが未だうまく繋がっていない覚醒直後の身体感覚が立ち上がる。「遠雷を拾ふ」の省略もうまい。音だけでなく近づきつつある雷雲の暗さ、大気の湿り気や気圧の変化をも敏感に「拾」いとっている「耳」をフィーチャーするのに効果的。また「遠雷」は近い未来を暗示しているようでもあり深読みを誘う。好まない嵐かもしれないがいずれは通り過ぎるだろう。
(小松敦/「海原」)
新緑や剃髪終えし耳二片
深井十日
「澤」2023年7月号(通巻280号)より
どうしても「耳なし芳一」を連想してしまう。怨霊から身を守るため全身に経文を書きつけたものの、耳にだけ書き忘れたために耳を千切り取られてしまう、哀れな芳一。なぜ書き忘れたかというと、やはり耳というのが異物であり、体の一部であることをつい忘れがちな部位だからだろう。
複雑な襞と謎めいた穴を持つ、茸のような貝殻のような、不思議な二辺。剃髪して頭部をつるりとさせたことで、その異物性がより際立って感じられる。しかし句全体からそれほど不気味な印象を受けないのは、「新緑」という季語から感じられる生命力ゆえだろう。
(西生ゆかり/「街」)
春雷や襁褓替へつつ歌ひつつ
椋麻里子
「ホトトギス」2023年8月号(通巻1520号)より
この句の季語が「たんぽぽ」などの明るいものだった場合、オムツ替えという赤ちゃんのお世話を楽しんでいる句になると思うが、この句の季語は「春雷」。夏の雷ほどの烈しさはないが、幸せな気持ちよりは、不安な気持ちを呼び起こすものだろう。赤ちゃんではなく、介護が必要な大人のオムツを替えているのかもしれない。春雷だろうが、どんな状況だろうが、人間出るものは出る。歌いながら淡々とオムツを替える姿は、とても逞しい。仕事が忙しくなると、鼻歌を歌い出す同僚がいる。歌には平常心を保たせる効果があるのだと思う。
(千野千佳/「蒼海」)
ポリバケツがぼと泉に入れにけり
黒岩徳将
「街」NO.162より
泉の水を、ポリバケツで汲み上げる、その動作を詠んだもの。ポリバケツという物。ガボという擬音語、動詞、物、季語。最小限であるため、作者が何のために泉の水を汲み上げているのかなどは、読み手に委ねられている。がぼ、から想像できるのは、この泉の豊かさであろう。旅人が偶然見つけたなら、ペットボトルに汲み程度であるから、日常的にこの泉の水を使っているような生活感も想像できる。この句には、こうした伏線がさりげなく散りばめられているように思う。
(野島正則/「青垣」「平」)
いつまでも乾かぬ水着康生の忌
岡野美千代
「銀化」2023年8月号(通巻299号)より
この句の康生とは『奎』の前代表、故・小池康生氏のことで作者と同じく銀化の同人でもありました。
奎でも追悼の句を詠んだものは見られましたが、はっきり「康生の忌」と詠んだものはありませんでした。
作者にしても小池さんの逝ってより一年経ったことでこの言葉を使えたのかもしれません。
家族とは濡れし水着の一緒くた 小池康生
を踏まえたもので間違いなく、そうすると水着がいつまでも乾かないことは決してネガティブな意味ではありません。
それは作者の水着もまた一緒くたになってるということ。
家族はより大きく広がり、銀化はもちろん、奎や小池さんを知る人たちみんなの水着が一緒くたになっていつまでも乾かないことを願ってやみません。
( 田中目八/「奎」)
鷹鳩と化しをさな子に歩み寄る
林範昭
「火星」2023年7月号(通巻1002号)より
悪魔や神が次第に小さくなって鳥に化け、町の公園の土をつついている、というような映画などのワンシーンが思い浮かんだ。なんでもない鳥が何かの拍子に悪魔に戻る可能性もある。季語「鷹化して鳩となる」には啓蟄のころのあたたかな雰囲気に加えて、幻想的な意味合いがある。このような可能性は心配しなくてもいいはずなのだが、胸にざわつきが残る句だった。平和は脆きものと感じることが多い今日このごろだからだろうか。鳩はよく見ると怖い目をしているからだろうか。
(藤色葉菜/「秋」)
【セクト・ポクリット管理人より読者のみなさまへ】