【読者参加型】コンゲツノハイクを読む【2025年6月分】

【読者参加型】
コンゲツノハイクを読む
【2025年6月分】


コンゲツノハイク」から推しの1句を選んで200字評を投稿できる読者参加型コーナーです。今月は10名の皆様にご参加いただきました。ありがとうございます!


春の日を遮り切れぬ文庫本
河瀬久美
「秋麗」
2025年5月号より

木漏れ日が隙間から差し込むという句は多数あるが、「遮り切れぬ」と否定形で提示されると、あふれるような春の日の広がりと温かみが、より強調されてゆく。浮かんだ景は二つ。

①仰向けに寝転んで顔の上に文庫本を載せている、春日。
②書架に並ぶ背丈の低い文庫本の隙間からあふれる、春日。

いずれにしろ、「文庫本の隙間から差す」ではなく「文庫本では遮り切れぬ」であることが、人智を超えた自然の大きさまで感じさせる、何気ないひと日を豊かにしてくれる佳き句。書を捨てよ町へ出よう。

押見げばげば


飛花ったり落花ったりもする国だ
斎建大
「noi」
2025年5月号より

あっぱれな機知句でぐうの音もでない。「やられた!」という感じ。飛花落花という伝統的もののあはれを掛詞で遊んで、きわめて今日的かつ切実な、え~、〈国力〉凋落の共有意識を、盛者必衰のシンボルたるナショナル・フラワーに軽々と重ねてみせる。その俳諧力を、愚生も作句の抽斗に肥やしたいと願えど、そうは問屋が卸さないのである。

生倉 鈴/「楽園」)


目の大き鹿島の鹿や冬の旅
田中木江
「麒麟」
2025年春号より

「鹿島の鹿」という言葉の良さにまず惹かれた。鹿島とは、愛媛県松山市にある島で、野生の鹿が生息している。鹿は目が大きいものと思うが、それでも「目の大き」とあえて言うことで、「鹿島の鹿」と対面したときの素直な喜びを感じる。「冬の旅」というシンプルな言葉でまとめたのが潔い。冬のぴんと引き締まった空気の中、鹿の目はますます澄んで、大きく、魅力的になる。結社「麒麟」のコンゲツノハイクの仲間入りが嬉しい。

千野千佳/「蒼海」)


はこべらの野に抱きあへば崩るる陽
いずみ令香
「noi」
2025年5月号より

アダムとイブを憶った。
苦難の果てに辿り着いたのは、はこべらの野。はこべらは普遍的な健全さを感じさせ、二人だけが野にいる景は希望の光に輝いている。そこでの抱擁は、敬虔であり厳粛かつ奔放で命のぶつかり合いのようである。
ここまででも素晴らしいのだか下五の「崩るる陽」で句としての完成度がマックスになる。二人が禁断の実を口にした原罪は子孫である我々も負っているとされる。その罪を「崩るる陽」は感じさせ人類史への疑義をも含んでいるとまで思わせる。
最も長く句の前で立ち止まり、人類創生に思い至ったこの句を一番に推す。

植 朋子/「noi」)


鍵盤に指先深く春夕焼
岡島貴子
「樺の芽」
第54巻第6号より

鍵盤の奥に指先が届いている。指を立てずに寝かせて弾いているのだろう。しなやかに伸びる手の甲や指が、滑らかに移動して奏でる旋律やリズム。力んでいない。ゆったりとリラックスしている。「春夕焼」が柔らかく鮮やかだ。「深く」で切れて生じる余韻がある。何かの深部に触れる感じ、気持ちの深いところ、その影の暗がりなど、「深く」から滲み出すイメージが「春夕焼」に溶け込んでいく。穏やかな気持ちになる。

小松敦/「海原」)


はこべらの野に抱きあへば崩るる陽
いずみ令香
「noi」
2025年5月号より

「はこべらの野」で、幼い日のままごとを。里山に暮らしていた仲良しの女の子二人、ずっと学校も一緒だったのに高校とか、そのあたりで何らかの外的要因、親の都合などで別れが。その二人が成長して、大人になってから偶然出会う。えーっ? 一瞬にして昔の仲良しだった時代に。
そのきらきらした思い出に加えて、後の一人ずつになってからの色々がブワッと思い出され、それがまるで陽のひかりを散らしたように散る一瞬。
女性なら(?)きっとそんな出会いもあると。いつまでも続くようなおしゃべりの弾け溢れだす、(ここが「崩るる」)瞬間の、輝く優しい景がとてもうれしく、素敵な句と思いました。

haruwo/「麒麟」)


沈丁とうすうす思ひながら過ぐ
板倉ケンタ
「南風」
2025年6月号より

沈丁花は、香り高い花が特徴で、三大香木と称される春の代表的な樹木。作者は、その沈丁花の確信が持てなかった。香りだけで花を見つけることができなかったのかもしれない。

野島正則/「青垣」「平」「noi」)


先ほどの人が戻り来植木市
水野大雅
「秋草」
2025年6月号より

「戻り来」が良い。植木を鑑賞していたら、さっきまで自分の近くで植木を見ていた人が、どこかからまた戻ってきたのだ。知らない人だし、ちらっと目をやったくらいだろう。その感覚が「戻り来」の言葉の短さと速さに表れている。植木市で目にするのは植木だけではない。そこを訪れる人々とその行動も目に入ってくる。戻ってきた人はどんな人だろうか。なぜ「先ほどの人」と気づいたのだろうか。この「先ほどの」という丁寧さのある措辞も良い。相手と距離がありながらも、同じものに関心をもっているという親近感をおもしろく伝えてくれる。

弦石マキ/「蒼海」)


拾ふではなく摘む心地落椿
石戸菜々花
「円虹」
2025年6月号より

「椿」の木の元は、大抵がよく手入れをされた黒土、或いは、もっと懇切丁寧な苔筵。その上の「落椿」は、紅であれ白であれ、命に満ち溢れているような趣きであります。
そのような落椿を見つけた作者は、「拾ふでなく摘む心地」と丁寧な措辞で自身の気持ちと動作を詠んでいます。
私は、そこに作者の透き通った心と、普段からの丁寧な暮らしぶりを感じました。
作者に「摘」まれた「落椿」は、さぞかし嬉しいことでありましょう。

卯月紫乃/「南風」)


仔馬生る前足の出て頭出て
荒木久美子
「銀化」
2025年6月号より

私が小学校の時、2キロのあった通学路。畑、山道、鶏、豚、牛、山羊、馬など、少数ながら飼っていた農家がある。このような出産、生命の誕生の感激を見た記憶がある。

野島正則/「青垣」「平」「noi」)



【次回の投稿のご案内】
◆応募締切=2025年5月30日
*対象は原則として2025年5月中に発刊された俳句結社誌・同人誌です。刊行日が締切直後の場合は、ご相談ください
◆配信予定=2025年6月5日
◆投稿先 以下のフォームからご投稿ください。
https://ws.formzu.net/dist/S21988499/

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