悉く全集にあり衣被
田中裕明
大作家の研究をするときに、出典はほとんどの場合、全集に拠る。というよりもむしろ、全集が刊行されていることは、「大作家」の条件だろう。
だが、大作家であればあるほど、研究が緻密になっていくため、全集の「ほころび」が指摘される。全集にも賞味期限は、あるのだ。
しかし、掲句ではそうした事情はあまり関係がなく、むしろ全集の「全能感」のほうに焦点が当てられている。ひとまずは、そう考えておこう。
では、季語の「衣被」はどうだろうか。
歳時記には「中秋の名月のお供えには欠かせない」とあるが、それは団子と同じ球形だからであり、つまるところ、月のようなかたちをしているからだ。
目の前に別に名月が出ている必要はない。衣被に「充足感」を見出しうるとすれば、それは球形である点においてよりほかはない。
歳時記を紐解けば、鈴木真砂女の〈今生のいまが倖せ衣被〉のような、幸福感や充足感の表象としての「衣被」を見つけることはできる。
しかしこの裕明の句において特筆すべきは、全集はことごとく「四角い」、ということだ。そこには作家の全文章が収録されているかもしれないが、丸い造本であることは、滅多にない。
丸い充足感と、四角い全能感。
これは同じではない。丸さは、月の満ち欠けのように、どちらかといえば、失われていくことを裏に控えた、とてもあやうい充足感だ。
そう思うと、この句はふたつの質の異なる全体性を、ぎりぎりのところで、出会わせている句だ、ともいえる。
あるいはここに、図式的であることは免れないが、仮にも〈男性的な〉全能感と、〈女性的な〉充足感、を重ねることができるかもしれない。
いや、こういう言い方はこのご時世、俳句の世界には保守的な人間が多いということを差し引いてみても、あまり適切ではなかった。
お詫びして、訂正する。
丸い充足感は、〈家庭的〉である。掃除、洗濯、食事、買い物、日々の雑事をそつなくこなすような力。ルーチンワークの美学。
四角い全能感は、〈労働的〉である。顧客から要求された仕事に、過不足なく応えるということ。サーヴィスの美学だ。
家庭は、いつゲスト(客)が来てもいいように、きれいに保たなければならない。客は、もしかしたら、やってこないかもしれないが、それでもやらなければならない。
労働では、クライアント(客)がいて、初めて生まれる。客がないところに、労働は生まれない。他力なのである。
一見すると、賃金を稼ぐ労働のほうが「自力」で、金にはならない家事労働は「他力」のように見えるが、逆なのだ。
家事こそが「自力」であり、何にも依存していない。依存しているのは、クライアントがいなければ成り立たない「労働」のほうだ。
そして、全集のクライアントとは、まぎれもなく読者のことである。全集をかくも角張らせているのは、読者の知性なのである。
読者の知性とは、ここに書いてきたようなことを、考えることだ。それは何かに応えながらも、本質的には何かに依存している。
実際に、この裕明の句は、『田中裕明全句集』(2007年)に収められている。
もちろん、全集と全句集はちがうけれど、書店で見たことがある方はおわかりのように、この書物はとても分厚く、ほとんど立方体の体をなしている。
その「角ばった」、なるべく隙を見せないようにすることを願う知性の横には、衣被のあやうい「丸さ」がやはり、必要なのだ。
(堀切克洋)