耳立てて林檎の兎沈めおり
対馬康子
フランスでも「bento」が売られているのをよく見かけるが、それはあくまで弁当屋の弁当である。もちろん、bento箱は売られてはいるのだが、中身に何をどう詰めるかまでは、売ることはできない。
小中学生の「おべんとう」のイメージのひとつが、「うさぎりんご」だ。「うさぎりんご」というのは、けっして市民権を得た呼び方ではないが、いざ書こうとしてみて、あの飾り切りが特定の名称をもっていないことにふと気づいた。その点、「タコさんウインナー」(プリマハムによって商標登録されている)とは、大違いだ。
日本のスーパーの冷凍食品コーナーでは、かなりの部分を「お弁当のおかず」が占めている。冷凍庫から出してそのまま入れれば、常温で解凍されて昼には食べごろ、というのは楽ちんでいい。
原理的には、「うさぎりんご」もそれができるはずだが、それが商品化されないのは、「うさぎりんご」のなかに実は、冷凍できないものが入っているからだ。それは、「愛情」とか「まごころ」と呼ばれる類のものである。
しかし、この句のなかの「うさぎりんご」は、どうやら少し雰囲気を異にする。「耳立てて」「沈め」られているのだ。まるで、スパイが盗聴器を仕掛けているようではないか。
子供が思春期に差し掛かってきて、母親である作者とのあいだに、何らかの関係性の変化があったのかもしれない。子供は、正面から聞いても答えないし、何かを隠しているようだ。
やはり、この「うさぎりんご」が冷凍されていたら、そのなかに隠されている盗聴機能は壊れてしまい、使い物にはならないだろう。
「沈めおり」という動作から感じられるのは、少しねじれた「愛情」だ。もちろん実感として、メインのおかずを入れたあとに、少し押し込むようにりんごをセットする、ということでもあるのだが。
しかし、一句として読んだときには、そういう(小説でより緻密に描かれそうな)母親の内面性に、日常的な素材を通じて迫っているように映る。
もっとも現在は共働きの世帯も増えてきて、お弁当にはより「効率化」が求められているため、このような句はともすれば牧歌的に映りもする。
「りんごうさぎ」をもって内省にひたるという仕掛け自体が、もしかすると過剰に演劇的/ドラマ的に感じられるかもしれない、ということだ。
その演劇性/ドラマ性は、この作者の場合、第二句集『純情』のなかの〈髪洗うたび流されていく純情〉などと一貫しているのだろう。
かつては、このような葛藤のドラマが俳句でも詠まれていたが、ポスト・ドラマ世代では、なかなかお目にかかれなくなっている気もする。
第三句集『天之』(富士見書房、2011)より。
(堀切克洋)