恋人はめんどうな人さくらんぼ
畑耕一
(『蜘蛛うごく』)
恋とは、面倒なものである。面倒でない恋人などいないだろう。愛すれば愛するほど面倒になってゆくものだ。尽くすことが好きな私は、我儘な男性に恋をしてしまう傾向があった。どんなに尽くしても気が利かないと言われ、浮気を許すと何故嫉妬しないのかと怒られる。しまいには「何を考えているのかさっぱり分からない。うんざりだ」と距離を置かれた。諦めて次の恋を見付けた頃になると急に連絡してきて、しつこく付きまとわれた。「こんなに尽くしてやったのに、ひどい女だ」と路上で叫ばれた時には、あまりの理不尽さに言葉が出なかった。恋愛の達人の先輩に相談したところ「プライドの高い男性ほどストーカーになるのよ。自己愛の強い人なのでしょうね。貴女もまた、尽くしている自分に酔っていた。でも、嫉妬もしなければ去ってゆく恋人を追いかけもしない。面倒な人同士が恋をすれば、面倒な結末にしかならないものよ」との助言。反省はしたものの、面倒な恋ほど楽しい。20代という美しい時間を不毛な恋愛に費やした。
そんな私もまた、いつしか恋愛相談を受けるようになった。40代男性のクマガイさんは、あだ名がクマさんで、熊のぬいぐるみのテディベアに似ていた。20代の頃は、モデルのスカウトをされるほどの美男子だったらしい。やり手の営業マンで出世するたびに体重が増えていったという。いつもブランドスーツに身を固めた中年の独身貴族が恋をしてしまった。相手は、入社1年目の女子社員。化粧っけもなくドジな女の子だ。話しかけただけで顔を赤らめるような純粋さが新鮮に映ったのだろう。紆余曲折の末、交際に漕ぎ付けた。彼女の誕生日の夜に高級ホテルでディナーを楽しみ、シャンデリアのある部屋でシャンパンを開けた。プレゼントは、シャネルの財布。当時としては完璧な演出である。だけれども彼女は少しも嬉しそうではなかった。普段から些細なひと言ですぐに泣きだすし、「私なんて」が口癖。「彼女が求めているものは、高価な食事でも財布でもないのかもね」と助言した。「でもさ、今日も可愛いねと言ったら、お世辞とか嫌なのと泣きだされると、ちょっとイラッとくる」。それは確かに面倒だ。「悩み事は何でも話せと言っても、私の悩みなんて聞いても退屈でしょ、と話してくれない」。「クマさんが完璧過ぎるから心を開けないのかも。クマさんの失敗談とか悩みを話したらどうかしら」「その作戦はすでに実践済み。私に合わせなくていいからって言われた」「マイナス思考の人なのね。イケイケのクマさんとはウマが合わないのでは」「次の作戦は、上野の噴水池に飛び込んで、好きだーって叫ぼうと思うんだけどどうかな」「もう、聞いているだけで面倒だから」。カクテルのマンハッタンには、山形県直送のさくらんぼが沈んでいた。口に含んだ後、ヘタをぐいっと引っ張りはがした。甘酸っぱい。カクテルグラスにひょいと種を吐き出す。種はからりと音をたてた。「豪快な食べ方だけどセクシーだ。君に恋をすれば良かった」「あ、私はもっと面倒な女なんで。私を口説く時は、濁流に飛び込む覚悟でお願いします」。
その後、クマさんは地方都市へ転勤になった。プロポーズをしたらしいが「結婚したら、絶対浮気するでしょ。きっと、転勤先でも誰かを口説くのでしょ」という理由で振られたらしい。彼女の予言通り、クマさんは転勤先で知り合った女性と結婚した。奥様になられた方の結婚の条件は、両親との同居である。キャリアウーマンの奥様は家事が一切できない。結婚後の愚痴を数時間にわたって聞かされた。
さくらんぼのぐにゃりとした果実を噛んでいると、私の回りには面倒な人が多いなと思ってしまう。若いさくらんぼの種には果肉がこびりついていて、いつまでも舌の上で転がっている。時には種が舌を刺すこともある。恋愛至上主義の私自身が一番面倒な存在であった。
恋人はめんどうな人さくらんぼ
畑耕一
作者は明治19年、広島に生まれた。東京帝国大学を卒業後、東京日日新聞に入社。学芸の担当記者を勤めた。38歳の頃、松竹キネマへ転職。松竹キネマ研究所所長、明治大学教授、国民新聞学芸部長などを歴任。54歳の時に全ての職を辞し、広島へ帰郷。作家活動に専念する。小説家、劇作家、作詞家として知られる。俳号は蜘盞子(ちさんし)。昭和16年に句集『蜘蛛うごく』を出版。
掲句は、自身の体験というよりは、作家として人間観察をするなかで生まれた句であろう。艶やかに赤らんだ〈さくらんぼ〉が象徴的に置かれている。ぶつかり合いながらも寄り添う二つのさくらんぼは、若い恋人同士のよう。文学サロンなどで語り合う女性たちの恋愛話を聞いて詠んだのではないだろうか。チェリーボーイという言葉があったかどうかは分からないけれども、女性と交わったことのない清らかな男性は、少々面倒な言動をする。新しい時代の女性たちは、性に対しても積極的な発言を述べることがあった。
だが、俳句とは基本的に自分が主人公である。掲句は、実体験として鑑賞した方が面白い。さくらんぼのようにはち切れる若さを持った恋人のことを詠んだのだとすると、我儘に振り回されている中年の男性像が浮かび上がってくる。
さくらんぼは、梅雨の時期に出回る。太宰治の小説『桜桃』は、さくらんぼのことである。6月13日に愛人と心中した太宰治の忌日は、「桜桃忌」と呼ばれる。掲句は、心中事件の前に詠まれた句なので太宰治との関わりはない。
さくらんぼには種がある。本来であれば種とは、次世代へ繋がる夢のあるものである。太宰治の小説『桜桃』の主人公は、その種を面倒そうに吐き出す。家庭を顧みず放蕩する主人公は、本当は妻子が気になって仕方がない。居酒屋で出された高価な果実も不味く感じ、ひたすら種を吐き続ける。この種には、子供が象徴されている。太宰治もまた面倒な人であった。
確かに、さくらんぼの種は厄介だ。特に女性にとっては。クリームソーダやパフェに添えられたさくらんぼを食べるまでは良いのだが、種を吐き出すのが恥ずかしい。口に入れたものを吐き出すのは下品なことと教えられてきた世代にとっては、戸惑ってしまう。家族や友達の前なら平気で吐き出せても、恋人や男性の前では吐き出せない。これが、乙女の恥じらいというものである。男性からしたら、面倒なことを気にする女だなと思うに違いない。 実家の庭にさくらんぼの樹を植えたことがあった。花が咲き、実を結ぶ頃には、たくさんの毛虫が付く。駆除しても駆除しても次々に湧く。ようやく赤い実が生ったと思ったら、鳥の群れがやってきて、あっという間に無くなった。面倒に思った父は、植木屋に売ってしまった。北海道の夫の実家には見事なさくらんぼの樹が4本植わっていた。義母が言うには、毛虫駆除はもちろんのこと肥料の調達や枝の手入れ、鳥対策など大変な手間が掛かっていたという。収穫したさくらんぼは、落葉で迷惑を掛けている近隣の家々に配り、さらには親族縁者にも郵送していた。聞けば聞くほど面倒である。美しい果実を得るということは、面倒なことも引き受けるということなのだ。
(篠崎央子)
【篠崎央子さんの句集『火の貌』はこちら↓】
【執筆者プロフィール】
篠崎央子(しのざき・ひさこ)
1975年茨城県生まれ。2002年「未来図」入会。2005年朝日俳句新人賞奨励賞受賞。2006年未来図新人賞受賞。2007年「未来図」同人。2018年未来図賞受賞。2021年星野立子新人賞受賞。俳人協会会員。『火の貌』(ふらんす堂、2020年)により第44回俳人協会新人賞。「磁石」同人。
2020年10月からスタートした「ハイクノミカタ」。【シーズン1】は、月曜=日下野由季→篠崎央子(2021年7月〜)、火曜=鈴木牛後、水曜=月野ぽぽな、木曜=橋本直、金曜=阪西敦子、土曜=太田うさぎ、日曜=小津夜景さんという布陣で毎日、お届けしてきた記録がこちらです↓
【篠崎央子のバックナンバー】
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【セクト・ポクリット管理人より読者のみなさまへ】