【読者参加型】
コンゲツノハイクを読む
【2022年4月分】
ご好評いただいている「コンゲツノハイク」は毎月、各誌から選りすぐりの「今月の推薦句」を(ほぼ)リアルタイムで掲出しています。しかし、句を並べるだけではもったいない!ということで、一句鑑賞の募集を行っています。まだ誰にも知られていない名句を発掘してみませんか? 今回は10名の方にご投稿いただきました!(掲載は到着順です)
踏切のバーに時差あり日脚伸ぶ
恵 英次郎
「ふよう」2022年3月号より
踏切の警報機が鳴り始めた。ふと二本の遮断バーが時間をずらして降りてくることに気が付いた。毎日通る踏切での小さな発見である。私も改めて踏切の動画をYouTubeで見てみたが、確かに片側に二本バーのある踏切では必ず左側が先右側が後に降りるよう時差が付けてある。考えてみれば当たり前のことで、まず入るを制して然る後出るを促すということだ。平凡な日常生活の中にある小さな気付きや驚きを平易な言葉で詩にまで高めるのが俳句。日々ほんの僅かづつ伸びて行く日脚との配合。正に「俗談平話」実践の一句。
(種谷良二/「櫟」)
幕間は神も桟敷へ里神楽
池上美海
「たかんな」2022年3月号より
宮中の御神楽でなく、民間伝承の里神楽ならではの演者と観衆の距離の近さが、幕間の一コマとして描かれている。桟敷で神の演者は面をとり、近隣住民である観客と談笑などしているかもしれない。それは演者と観客の距離の近さでもあり、古代からの神々と人々の距離の近さも表しているようだ。昨今は神社の氏子が激減したり、神主不在の神社が増えているそう。里神楽のこの光景もますます貴重になっていくのだろう。
(小谷由果/「蒼海」)
山茶花に引越しの荷の止まりたる
石川喜代美
「百鳥」2022年3月号より
山茶花がよく状況をあらわしていて、季語の働きが秀逸だと思いました。作者の位置、若干野次馬的視線も感じます。どんな町並みか、道幅、停車したトラックの大きさなど、ほとんどの読み手が同じような景を想像しそうです。山茶花の咲くお宅へ引っ越してきたのはどんな人物でしょうか。ご実家の親御さんとの同居を決めた娘さんご一家ではないか、と勝手なことを思いました。
(フォーサー涼夏/「田」)
初雪や少女たちにも秘密基地
志々見久美
「雲の峰」2022年3月号より
初雪と少女たちの組み合わせだけでも十分なのに、秘密基地まで。
秘密基地とは、少年たちのものだとばかり思ってきたが、この句では少女たちにも秘密基地があるという。少年たちのそれとは、きっと違うものなのだろう。そこで少女たちは、どんな話をしているのだろう。やはり秘密の話なのだろうか。
とにかく美しい句である。初雪の淡い美しさと、少女が大人になってしまう前の美しさの共鳴とでも言おうか。また、女子版のスタンドバイミー的なものも感じる。
自分が薄汚れた大人になってしまったことを反省するに十分な、尊い句である。
(松村史基/「ホトトギス」)
ジェンダーの話は避けてお正月
佐々木佳子
「楽園」第1巻第6号より
「ジェンダーと俳句」は、そろそろ大問題となってもおかしくありません。昨年ある句会で「草刈女」は使わないほうが良いという話題が出ました(「早乙女」は「乙女」なので構わないとか)。また「雛祭」は女児の幸せな結婚を願ったもの、「鯉幟」は男児の立身出世を願ったものであり価値観が固定化している、などと言われてもおかしくありません。
揚句はお正月、夫の実家で妻が「お嫁さん」として(いつもと違って文句も言わず)働いている姿かな? ジェンダー論は置いておいて。
(鈴木霞童/「天穹」)
閉ぢられて襖の海の広がりぬ
宮島ひろ子
「百鳥」2022年3月号より
それ自身では必ずしも充分な季感を持たない季語を、活かし得て妙です。左右に両断されている絵が合わさったとき広広と見えた、と解します。〈閉ぢ〉〈広がり〉の逆ベクトルの効果もさることながら、まず以て〈閉ぢられて〉の上五によって、肉体的心理的に縮こまるような趣があると読めます。寒さを感じての萎縮。見えるのは描かれた海。〈襖〉だけでは寒くも何ともない処、このように状況が宜しく按配されたことで冬の気韻が生じました。
(平野山斗士/「田」)
笑点の座布団ほどの冬日向
黒澤麻生子
「磁石」2022年3月号より
冬日向とは、簡単に言えば寒気の中の日差しのことである。ただイメージとして短時間だとどうしても感じやすい。掲句の「笑点の座布団ほどの」の措辞がなんともイメージを膨らませやすい。笑点は大体の方がご存知の演芸番組、大喜利での座布団の駆け引きが魅力の番組。単純に座布団だけでは面白くなく、「笑点の」としたため、温かく癒される冬日向を想像できる。
また座布団では日差しの当たる範囲も狭くイメージするが、やはり「笑点の」としたため、一気に空間が広がり会話の弾みそうな冬日向と変化している。和やかなじんわりくる一句だ。
(紀宣/「天塚」「篠」)
何となく鰈を買ひぬ父なき冬
渡辺マミヲ
「銀化」2022年4月号より
おふくろの味、つまり男性の好きな魚料理の定番は、鯖の味噌煮、秋刀魚の塩焼き、そして鰈の煮つけらしい。とりわけ作者のお父様は鰈が好きだったのだろう。「何となく」が効いている。俳句に使うには勇気の要る表現だと思うが、ここは確かに「何となく」なのだ。それほどまでに亡き人はまだ近くにいる。どんな気持ちで調理し、食卓に並べ、食べたのか、冬の寒さと煮つけの地味な色合いが相まって、想像すると胸が苦しい。だから、作者が今度鰈を買うときは「何となく」ではなく、意志をもって、であることを祈っている。
(太田美恵子/「櫟」)
芒道生まれる前に来たやうな
荻野隆子
「かつらぎ」2022年3月号より
「生まれる前」とは母の胎内にいた頃のことか、それとも前世のことか。どちらにせよ、懐かしさに満ちた既視感を覚えているのだろう。明るい「芒道」を歩いていたら、いつの間にか「生まれる前」まで来てしまった。それに気づいたときの、揺れる芒のやさしさ。また「生まれる前」を「自我が芽生える前」と捉えてみてもよい。幼少期の感覚と現実の景がリンクしたとき、世界は一旦自身の内側に狭まるが、そこから無限の世界へと広がっていく。「芒道」を一本道として私は読んだが、句の解釈は何本もの道にも分かれていて、それも面白い。
(笠原小百合/「田」)
ゆく年やチェロ弾けば腿じんとして
冬魚
「澤」2022年3月号より
チェロは座った状態で足に挟んで弾く楽器だ。チェロを弾くと楽器から体に振動が伝わり、音とは空気の振動だということを実感する。弦楽器のなかでもチェロは一番人間の声に近い音域をもつといわれ、チェロから伝わる振動はとてもここちよいものだ。「腿じんとして」は端的にその状況をあらわしている。さらに「腿」という部位の限定にはリアリティーがある。季語「ゆく年」に、チェロを弾きながらこの一年を思い返している感じがでている。一年の締めくくりに相応しい、しずかであたたかな句だ。
(千野千佳/「蒼海」)
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