いぬふぐり昔の恋を問はれけり 谷口摩耶【季語=いぬふぐり(春)】


いぬふぐり昔の恋を問はれけり

谷口摩耶
(『風船』)

 恋人に昔の恋の話をしてはいけないということを知ったのは、夫と交際し始めた頃である。それまでは、様々な人に昔の恋の話をしてきた。女性は過去を話したがるものだ。一方で人の恋の話も楽しんでしまうので、恋人にも過去にどんな恋愛をしてきたのかを聞いてしまう。相手の過去に大恋愛があり、運命に翻弄された恋を熱く語られても嫉妬したことはない。男性もまた、私の過去の話に耳を傾けつつ「そんな男とは別れて正解だ」とか「自分は、もっと誠実な男だ」みたいな相づちを打ってくれたように記憶している。

 恋人になる前もなった後も、お互いの過去をさらけ出し、その反省も含めてどんな交際をしてゆくのかを話し合うべきだと思っていた。女性は、余程のことがない限り過去の恋を引き摺らない。終わったことは終わったこと。終わったからこそ話せるのだ。引き摺っていたら話せない。男性は、過去の恋を引き摺るので、話し始めるとその時の気持ちに戻るという。だから女性の過去の話に嫉妬するのだと聞いたこともある。別れても好きな人、そんなものが存在しない私には、理解できないことであった。

 とあるプライドの高い男性が昔の恋の話ばかりするので、私も軽い気持ちで恋の話をした。男性としては、自分が女性にもてることをアピールしたかったのだろう。嫉妬して欲しい気持ちもあったのかもしれない。男心が分からない私は、一般的な恋愛論の過程として過去の恋の話をしてしまった。「君の話はつまらない」と言われてしまう。それ以後は、話すよりも聞き役に徹した。男性の話は大抵、女性に愛されすぎて重かったとか疲れたとかそんな内容。だから愛しすぎないよう適度な距離を持った。

 またある時は「君は素直な人だと思ったから付き合ったのに全く素直じゃない。もっと積極的に僕に近付いて欲しかった。自分では奥ゆかしいとか思っているのだろうけど、僕には不愉快だ。それとも、恋の駆け引きを楽しんでいるのか」と言い出す。痛いところを突かれた。実は、以前交際した男性に「逢いたい」という要求ばかり押しつけてしまい、ふられた傷を引き摺っていた。恋の傷を素直に伝えることはできなかった。「ごめんなさい。私の心の問題なのです」と答えた。男性は、私が密かに抱えている古傷に気付いたのだろうか。「君の問題ではなくて、これは僕自身の心の問題だ」と怒り出した。自分もまた過去のトラウマを引き摺っていることを伝えたかったのだと思う。お互いに過去の恋の想い出に酔って、現実の恋がぼやけてしまった。

  いぬふぐり昔の恋を問はれけり   谷口摩耶

 いぬふぐりは春先に咲く小さな青い花。幼い頃好きだった花は今でも出会えば心がときめく。当該句の〈昔の恋〉とは、淡い初恋のことであろう。当然のことだが男性は初恋を引き摺る。過去を切り捨てて生きる女性もまた初恋だけは引き摺る。恋という言葉も知らなかった頃の遠い遠い昔の恋。決して叶うことのない恋。結ばれなかった恋ほど美しいものはない。

 初恋の想い出なら、語っても良さそうなものだ。微笑ましい話なのだから。作者は、昔の恋を問われて、その後どうしたのだろう。話さなかったのではないかと思っている。その恋は、人に語ってしまったら終わってしまうような恋。自分の心の中に閉じ込めて聖なるままにしておきたい恋。初恋に限らず、語ることのできない恋は、きっと誰しもが抱えている。

 私の初恋は、恋といえるのかどうか分からないほどの想い出なので、夫には何度も話した。そのたびに怒られた。夫の初恋の話は、いつもぼんやりとしており共感できない。多分、話せないのだろう。過去の恋にこだわっていては前には進めないから。前に進むために女性は過去の恋を話すが男性は違うのだ。終わっていない恋の話は、恋人にするべきではないのだ。

 夫は、初恋の男性に似ている。いぬふぐりの花にしゃがみ込みながら、ずっと一緒に眺めていてくれるところとか。私よりも頭が良くて、運動神経も良いのに不器用な性格も。比較するつもりは全くない。たまたま似ていただけ。初恋の男性が今、どのように生きているのかも分からないし、逢ったとしても幼い頃に戻ることはない。逢いたいとも思わない。無邪気な昔の恋の話に苛立つ夫の気持ちが分からない私は、いわゆる天然ぼけなのだ。 

 残雪の合間に咲いた青い花は、とても小さな恋。人はみな、遥か昔の恋の続きのように現在の恋を紡いでいる。女性は、昔の恋を語ってはいけない。

篠崎央子


篠崎央子さんの句集『火の貌』はこちら↓】


【執筆者プロフィール】
篠崎央子(しのざき・ひさこ)
1975年茨城県生まれ。2002年「未来図」入会。2005年朝日俳句新人賞奨励賞受賞。2006年未来図新人賞受賞。2007年「未来図」同人。2018年未来図賞受賞。2021年星野立子新人賞受賞。俳人協会会員。『火の貌』(ふらんす堂、2020年)により第44回俳人協会新人賞。「磁石」同人。


2020年10月からスタートした「ハイクノミカタ」。【シーズン1】は、月曜=日下野由季→篠崎央子(2021年7月〜)、火曜=鈴木牛後、水曜=月野ぽぽな、木曜=橋本直、金曜=阪西敦子、土曜=太田うさぎ、日曜=小津夜景さんという布陣で毎日、お届けしてきた記録がこちらです↓


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