秋虱痼
小津夜景
小津夜景さんのブログ「フラワーズ・カンフー」で、「3文字俳句」というのを見つけた。掲句、何と読むか、おわかりだろうか?
おわかりだろうか、と書いたものの、これは「漢字の読み下し」(訓釈)なので、自由に読んで(解釈して)もらってかまわない。
先のブログには、こうある。
あきじらみ/ひさしくなおらないやまい
「痼」という漢字は、現行ではほとんど使われない文字だが、「しこり」という読みがある。辞書的な意味では、
①筋肉などが凝ってかたまること
②物事を解決した後でもまだ残っているすっきりしない気分
とあり、それに対し「ひさしくなおらないやまい」という、まるで自分の体が異物になってしまったような感覚を、わたしたちの日常語で、しかも句またがりによる独語のようなリズムで、読み下している。
「虱」は「しらみ」。これは、難読字かもしれませんが、まあそこそこ使うので読めますね。「風(かぜ)」じゃありませんよ。
シラミは、病原菌を媒介する害虫である。日本ではそこまで問題にならないが、フランスではたまにニュースになったりする。
「蚤(のみ)」と並んで、夏の季語として収録している歳時記もあるにはあるようだ。「秋虱」とあるから、ここでは秋の季語的なノリです。
さて掲句、三文字で書いたことによる最大の効果は、「風」と「虱」の字体のうえでの類似性である。
シラミは小さく、病原菌を運ぶから「風」に喩えられたとしてもおかしくはない。とってもネガティブな「秋風」だ。
読みとしては、「やまい」がシラミによって媒介されたタチの悪い病気であると考えるのが、自然だろうと思う。
この句の音声的な部分(意味)をになっているのは、読み下すのに使われているかな文字のほうで、冒頭にあげた漢字は、その深淵なる起源として、視覚的な状態(音声をもたない状態)にとどまっている。
かつての列島のひとびとは、このように音声をもたない外国語(中国語)である漢字に、同時通訳のようにしながら、「声」をかぶせることで、日本語の領域を広げてきた。
万葉集の時代には、いまでいう「文語」が「声」として使われていたが、現在のわたしたちにとって、「文語」はすでに声としての地位を失っている。
しかし、それでも「やまいがね」とは日常で言わない。わたしたちの言語で通用しているのは、「病気」という漢語のほうであって、それはあまりに客観的で、観念的で、意味が一意的すぎる。
つまるところ、〈からだ〉をもたないことばである。
わたしたちはいま、こういう〈からだ〉をもたないことばと、〈からだ〉そのものであるような言葉を、ごちゃまぜにして使って生きている。
その「ごちゃまぜ」のなかの一翼は、あきらかに俳句がになっているのであり、俳人である夜景さんが、漢詩にかんする本をこんど刊行されるというのも、ひとまずはそういうコンテクストに置くことができる。
さらにいえば、ニース在住の俳人にとって、生活言語は日本語ではなく、フランス語である。水林章のことばを借りれば、もはや日本語は「純粋な母語」としての性格を失っているはずである。
パレットにとった絵具が、いつしか混ざり合っているようなイメージの言語が、日本語。そういう不純さを、わたしたちはしばしば、忘れがちだ。
というわけで宣伝ですが、10月より小津夜景さんには「ハイクノミカタ」のコーナーで、毎週日曜にご登場願いますので、おたのしみに。
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(堀切克洋)