ふくしまに生れ今年の菊膾
深見けん二
昨日は「子規忌」だったので、田中裕明について書いたが、今日は長命の俳人について書かせていただく。
今年は後藤比奈夫(1917-2020)が103歳で、また昨年は伊丹美樹彦(1920-2019)が99歳で亡くなったので、今日の俳壇最長老は、小原啄葉(1921-)、そして深見けん二(1922-)ということになる。
小原啄葉は岩手の生まれ、1951年、「夏草」に入会して山口青邨に師事。一方の深見けん二は福島の生まれ、学生時代から高濱虚子、そして深川正一郎のもとで俳句を学ぶが、1952年より山口青邨にも師事し、1953年に青邨の「夏草」同人になっている。
ぜひ、啄葉とけん二のZOOM対談が企画できないものか。
さて掲句、「今年の」という長命俳人の伝家の宝刀を持ち出しながらも、「ふくしま」と「菊」という言葉のイメージの重なり合いが、さまざまなことを想像させる。
福島県人にとって「菊」で思い出すのは、二本松の菊人形である。けん二の生まれは、現在の郡山にある高玉金山。最盛期だった昭和初期には「日本三大金山」の一つに数えられた。郡山から二本松までは、電車で45分ほどの距離である。
もちろん、すべての人が「生まれ故郷」を大切に思っているが、2011年の原発事故以降、ふくしまの自然は大きく毀損されてしまった。
にもかかわらず、米ソ冷戦がはじまり、日本の再軍備化の流れのなかで正力松太郎がメディア(読売新聞・日テレ)の力を使って「平和のための原子力」「核の平和利用」というスローガンを喧伝した、という政治的文脈と「原発」をかんたんに切り離せるはずもなく、政治的には現在もなお膠着状態がつづいている。
アイゼンハワー(当時のアメリカの大統領)が、ニューヨークの国際連合総会で「平和のための原子力」を提唱したのは、深見けん二が「夏草」同人となったのと同じ1953年である。
そんな時代に刊行された第一句集『父子唱和』(1956)の後書で、深見けん二は、次のように述べている。
「社会生活を行つてゐるものにとつて、社会性も人間性も無関心ではあり得ない。殊にこの化学の進歩のはげしい、しかも混乱した世相に於て、これらから目を外らすことは、行くべき道ではない」。
これは「社会性俳句」に対する応答であり、それゆえにけん二は、「俳句は直接に之らを表現すべきものと、私は思はない」が、「誠実に苦しみぬいて、その人間が季題によつて触発された感情の十七字詩が俳句だと思つてゐる」と、きわめて倫理的な診断をくだしている。
「誠実に苦しみぬくこと」が大事であるというのは、一見するとお気楽な文芸である俳句の世界においては、あまり強調されることはない。
膳の片隅にひっそりと置かれる「菊膾」は、重陽を祝うための「菊」とも通じ合う。邪気を払い長寿を願うのであるから、老いゆく身を叱咤し、問題だらけの社会にもめげず、まだまだ生きようとしているのである。
「ふくしま」のなかには「福」という字が隠されている。幸あらんことを、とまるで深見けん二が、世界全体を祝福しているかのようだ。
ウェブで読むことができるけん二の声としては、ふらんす堂のホームページ上に「スペシャルインタビュー」がある。
『菫濃く』(2013)より。(堀切克洋)