おもむろに屠者は呪したり雪の風 宮沢賢治【季語=雪(冬)】

おもむろに屠者は呪したりの風

宮沢賢治


家畜に対する憐憫の情が、抑制の効いた筆致のうちに滲出している。このやるかたない感情は、菜食主義者であった宮沢賢治にとって、ひときわ強いものであったに違いない。

賢治には、菜食主義をテーマとした「ビジテリアン大祭」という童話がある。菜食主義者たちの集まりに批判派が闖入し、侃々諤々と議論を交わす、という内容である。童話とはいっても、論点を詳らかにし議論するさまは明晰で示唆に富んでいる。

この童話については間然するところがないが、野暮を承知で、僕じしんの菜食主義についての愚考を述べたい。僕は、童話の中で批判派の一人が「動物と植物との間には確たる境界がない。(中略)人類の勝手に設けた分類に過ぎない。動物がかあいそうならいつの間にか植物もかあいそうになる筈だ。」と口角泡を飛ばして問うたことばにもっとも共感する。

動物も植物も、その根において生命である点に違いはないはずである。だのに、器官や構造の違い、あるいはそれらの複雑さにおいて、人間から隔たりがあるように感取される植物は同情の外に放擲され、逆に動物は、人間と多くの相同性を見出すことのできるために同情されやすい。それだけの違いのように思える。

念の為に申すと、僕は菜食主義を否定しているわけではない。動物も植物も生きとし生けるものであるという前提の上に、いやおうなしに生起する同情や憐憫は、無視するものではないと考えるからである。

僕が言いたいのは、動物を殺めることをやめたからといって、生きて在る以上、何らかの生命を奪っているのだから、生きて在るということはそれだけで罪深いということである。そういう意味で、誰しもが原罪を負っていると考える。

さて、動物と植物の関係を考えてみるとき、歳時記における分類に思いを巡らせてみたい。歳時記では、時候・天文・地理・生活・行事・動物・植物が一般的な分類とされるが、とするならば、歳時記では動物と植物は主従なく扱われているといえるのではないだろうか。縦題横題の差はあれ、基本的に季語はみな同一の地平に散開してあるといえる。これを俳句の平等性とすることは礼讃が過ぎるであろうが、例えば、言い古された「詩は鎮魂である」といった箴言に対して、掲句の憐憫が、俳句という動物と植物を同一の地平に見出す世界観の上に成立していることは一考に値するかもしれない。

そしてまた、同じく言い古された「詩は救済である」といった箴言は、先の箴言を反対の側面から銘した同一のことのように思う。生きて在ることの原罪から救済されようと冀求するのではないだろうか。

『新修 宮沢賢治全集 第一巻』(1980)所収

木内縉太


【執筆者プロフィール】
木内縉太(きのうち・しんた)
1994年徳島生。第8回特別作品賞準賞受賞、第22回新人賞受賞、第6回俳人協会新鋭俳句賞準賞澤俳句会同人、リブラ同人、俳人協会会員。


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