寄り添うて眠るでもなき胡蝶かな
太祇
(『太祇句集』)
炭太祇(たん たいぎ)は、江戸中期の俳人。江戸に生れ、江戸座の俳諧を学び、歌舞伎などの劇界や遊里の人々とも交流を持った。奥州諸国の旅を経て、四十歳の頃、京都に上り、大徳寺の僧侶となる。後に、島原遊郭の桔梗屋呑獅の庇護を受け、不夜庵を結び、与謝蕪村らと俳諧三昧の生活を送る。遊郭では、遊女に俳諧や手習いの教授を行っていたという。また、江戸幕府公認の花街に再び客足を取り戻そうと、からくり人形を飾った灯籠や太夫による仮装行列などの年中行事を始めたとも伝わる。これらのアイデアは、吉原を習い助言したとの説もある。不夜庵では、芭蕉を祀り、天明期の俳句復興に貢献した
太祇が生まれたのは宝永6年、第6代将軍徳川家宣の時代。江戸には、第9代将軍の徳川家重の時代まで居たと思われる。8代将軍徳川吉宗の「享保の改革」により、財政が安定し、町人文化が発展した時代である。島原遊郭に移り、明和8年、62歳で亡くなるまでの約20年間は、家重から第10代将軍代徳川家治までの時代。上方が栄えた元禄文化は、ひと昔前のことで、島原も活気を失っていた。亡くなったのは、田沼意次時代の少し前である。
ちなみに大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」の蔦屋重三郎は寛延3年生まれ。太祇が江戸を去る頃に相当する。蔦重が出版業に乗り出す頃には、亡くなっていた。幕府公認の遊郭に住み、花街の復興と文化の発展に貢献した点が共通している。
太祇の句は、遊郭の生活や人間を観察した句が知られている。一方で絵画的な丁寧な描写の句も魅力的だ。
下萌や土の裂け目のものの色
山吹や葉に花に葉に花に葉に
雨重き葉の重なりや若かへで
刀豆やのたりと下がる花まじり
ものの葉に魚のまとふや下り簗
蔓草や蔓の先なる秋の風
雨水も赤くさびゆく冬田かな
土の裂け目への視点、山吹の黄色と緑の葉とのコントラスト、若楓の雨の重さによる重なりの発見、花まじりのなた豆のさがり具合を〈のたり〉と描写し、葉にまとう下り簗の魚、蔓の先だけが感じる秋の風、鉄分を含む冬田の赤きさびなど、情景を鮮明に捉える。
1 / 5