【連載】落語と俳句 行ったり来たり/三橋五七【第2席】


【第2席】
越境する竹の子


卯月はや筍固くなりにけり 野村喜舟

ご存じの通り竹の子(筍)は夏の季語。ですが、この句が言うように、旧暦四月には竹の子はすでに成長しすぎて、スーパーや青果店からあらかた姿を消しています。
いま私たちが食べている竹の子のほとんどは孟宗竹です。中国原産の孟宗竹が日本に伝わったのは江戸中期と言われ、その食用栽培が全国に広がったのは幕末から明治初頭にかけて。暖かい地域では12月から収穫が始まり、全国的に3~4月が出荷のピークです。5月の出荷量はごくわずかで、実態としては春の食材。野村喜舟(1886年~1983年)が詠んだのもおそらく孟宗竹の竹の子でしょう。
孟宗竹が全盛となる以前、竹の子といえば主に真竹や破竹の若芽でした。こちらの旬は5月~6月上旬。季語の「筍」はもともと真竹や破竹の竹の子を指していたと思われます。
孟宗竹伝来以前の竹の子を詠んだ俳句として、『猿蓑』(1691年)に向井去来の次の句があります。去来の営んだ草庵「落柿舎」があったのは京都嵯峨野。美しい竹林で知られる土地です。

たけの子や畠隣に悪太郎  去来

ちょっと目を離しスキに竹の子をかっぱらっていきそうな悪ガキと、その様子をうかがう去来。「悪太郎」という言葉が想起させる子供のたくましい生命力が竹の子と重なります。
少し時代が下った小林一茶にはこんな句があります。

笋のうんぷてんぷの出所哉 一茶

地下茎をぐんぐん伸ばす竹だけに、竹の子は思わぬところから顔を出します。「うんぷてんぷ(運否天賦)」に一茶の驚きが表れているようです。
盗掘されやすきものにして、どこから顔を出すかわからない意外性。江戸時代の俳人を面白がらせた竹の子の性質に、落語家も着目しました。それが「たけのこ」という演目です。本編だけなら4~5分で終わる短い噺で、春の寄席でときどきかかります。原話は享保11年(1726)に刊行された笑話本『軽口初笑』にあります。

舞台は武家屋敷。家来が主人に今日のおかずは竹の子だと告げます。「もう、そのような時候になったか」と上機嫌な主人。「出入りの商人から買い取らしたか? それとも、いずくから到来でもいたしたか?」と訊ねると、家来はそのどちらでもなく、隣家の竹の子が当家の屋敷の庭に頭を出したので、それを差し上げると答えます。
これに主人は色をなします。
「たわけ。武士たるものが隣の物を黙って食らうとは何事だ。渇しても盗泉の水を飲まずとは義者の戒め。かよう盗人同然の者をこの屋敷におくわけにはいかん」と言うと、「もそっと前へ出よ。竹の子の前に、その方の首を落としてつかわす」
家来は慌てて平伏し「しばらく、しばらくッ。旦那様、あたくしが悪うございました。どうか打ち首はご勘弁を。それに実はまだ、竹の子を取ったわけではございません」
この言葉に主人は再び怒ります。
「なに、まだ取っておらん。早く取ってこんか」
「はぁ?」
「はぁではない。竹の子というものは育ちが早い。硬くなってはどうにもならん」
「いや、しかし、取ってはならんと」
「分からん男だの。それは表向き。ワシとて隣のあの憎らしいジジイの竹の子を食らうというのは愉快だ」
「脅かしちゃいけません」
そんなやりとりの後、主人は「とはいえ、黙って食らうのも何だから、隣家に断りを入れに行け」と命じます。
「隣家に行ったらこう申せ。御当家様の竹の子殿が、手前ども屋敷の塀越しに土足で踏み込んでまいりました。生なきものとはいえ、乱世の御世であれば、まさしく間者同然の振る舞い。あまりにも不埒ゆえに手打ちといたしますが、この段をお断りにまいりましたとな」
隣家を訪ねた家来がその通り告げると、その家の主は、
「何と!左様でござったか。言って聞かせたつもりではござったが、何をしでかすやら。いやいや、お手打ちの儀、ごもっともにござる。委細、承知つかまつった。ただ、あの筍めは、長らく当屋敷におきまして慈しみ育てたものゆえ、何とぞ武士の情けをもちまして、亡骸だけはお下げ渡しを願いたい」
敵もさるもの、さて、その顛末は……高座でのお楽しみとしておきましょう。

 

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