
うたたねのかほのゆがみや五月雨
釣壺
五月雨に降りこめられたつれづれにうたたねをしている人がある。ふとその顔を見ると、どういうものか歪んで見える。そこに或寂しさを感じた、というのである。
病人などでなしに、うたたねの人であるところがこの句の面白味である。少し老いた人のような気がするが、必ずしもそう限定せねばならぬというわけではない。
以上、「古句を観る」柴田宵曲(岩波書店)より。
柴田宵曲は明治三十年、東京の生まれである。虚子の抜擢を受けて「ホトトギス」の記者となる。
寒川鼠骨の発起により、宝井其角の家集「五元集」の論講が催される。宵曲は記者として、その会に毎回参加する。
その後に、宵曲は「ホトトギス」を去り、鼠骨に師事するようになる。
私が宵曲の一冊を手にしたのは偶然である。度々、ページを捲り、あらゆる古句を率直に、大事に述べている宵曲の言葉に安心している。
葉のふとる一夜一夜や煙草苗 釣壺
畠に作った煙草でもいいが、昔のことだから、庭の隅か何かに生えた苗と見ても差し支えない。
ぐんぐん伸びる煙草苗が、一晩ごとに目に見えて大きくなる。葉の大きい、丈の高くなる植物だけに、その育ち方も著しく感ぜられるのである。
平凡なようであるが、煙草苗ということは動かし難い。
宵曲のこの、作者にではなくて、作者の俳句に対してのなんともうれしそうな書きぶりが、いいなあと思う。私もこんなふうに、のびのびと俳句を読みたい。
何ごとにとらわれることもなく、いいことをほめ、率直にものごとをうたがいたい。
私は自分の俳句を発表する機会よりも、句会の司会に呼ばれる機会の方が多い。その句会も、大きな句会などではなくて、どちらかというと小規模で、俳句に深くはない方々と句座を囲んでいる。俳句に深くはない、と書いたが、ただしくは、俳句という世界に深くはない、だ。その場では、時にまっすぐな質問がやってくる。
「いい俳句って、なんだと思いますか?」
私は、いろいろごちゃごちゃ余計な前置きをした後に、「わからない」と答えた。
まず、極めて純粋に、基準は置かれるべきである。その中で私たちは、あれはいい、これはいい、これはどうだろうとやりながら、自分を信じてこれが「いい俳句」と決めるのだと思う。
私はこんなふうに、俳句をやっていきたい。
(内橋可奈子)
【執筆者プロフィール】
内橋 可奈子(うちはし・かなこ)
1983年生まれ。兵庫県在住。「伊丹市俳句協会」会員。「窓の会」常連。