冬日宙少女鼓隊に母となる日 石田波郷【季語=冬日(冬)】

冬日宙少女鼓隊に母となる日

石田波郷


『鶴の目』所収の句であり、いわゆる「難解俳句」の代表的な句群のうちの一つである。

もっとも、現在この句を引いて「難解俳句」というカテゴリーを回顧する場合には、「現在からすればそれほど難解ではない」という旨の注が付されることがほとんどである。これには私も同意する。
その句意は、波郷自註による「眼前鼓笛を鳴らし進む少女の一群、戦争、之等の少女達が母となる日は——、暴戾な戦争は敗れ去り、然し少女たちは一人残らず健康な母とならんことを作者は今切に祈る」(「波郷百句」)との述懐によっておよそ言い表されているといえよう。

留意したいのは、この句は昭和十四年四月の「馬酔木」誌上に「冬日宙少女鼓隊の母となる日」として発表されたものが、同年刊行の『鶴の目』収録時に「冬日宙少女鼓隊に母となる日」と改められたものの、『行人袂』(昭和十五年)や『大足』(昭和十六年)において再収録された際にはふたたび「冬日宙少女鼓隊の母となる日」となおされており、自註「波郷百句」(昭和二十二年)もそれにならっている点である。
これは諸家の鑑賞においても、「の」の助詞によって鑑賞されるものと、「に」によって鑑賞されるもののいずれもあるようである。初出、かつ後年の波郷の意を汲んだ「冬日宙少女鼓隊の母となる日」と、第一句集『鶴の目』所収の「冬日宙少女鼓隊に母となる日」のいずれの形を優先するかという点で揺れているのであろう。私としては、『鶴の目』の方を選びたい。

格助詞「の」から「に」への変化は、句意を補足しておおげさに口語的に解すれば、「少女たちが母となる日の訪れることを願う」が「少女たちに母となる日が訪れることを願う」へと変わったのであって、そう極端な差異があるわけではない。
とはいえ、「の」の場合では明確に「少女鼓隊」を主格として「母になる日」をつなぐのであり、実体としての「少女鼓隊」の存在感が強い。反対に、「に」の場合では、「母となる日が少女たちに……」というような、むしろ「少女鼓隊」を目的格として、「母となる日」の方を主格とする構造が見えてくるため、「母になる日」の比重が大きくなって、より未来への願いという側面が強くなっていようか。
また、「少女鼓隊の母となる日」では、文法上「今日が少女鼓隊の母となる日だ」という誤読の余地を残してしまうが、「少女鼓隊に母となる日」では、「少女鼓隊に母となる日が訪れる」という読解以外に至りづらいという違いもあるように思われる。

ところで、『鶴の目』刊行をうけて水原秋櫻子が「馬酔木」に発表した「「鶴の目」を読みつつ」という文章がある。

全体に私小説風の装飾が多く、まず「埼玉県栗橋町の稲荷屋といふ川魚料理屋で、折柄襲つて来た初秋の驟雨にとぢこめられながら私は「鶴の目」を読んだ。座敷の前にはせまい庭があり、その下を利根が滔々と流れている」という描写にはじまり、そこで秋櫻子が『鶴の目』を傍目もふらずに一時間足らずで読んだということが示される。その後には読後感を語りつつ、波郷を激賞していくのであるが、その途中、波郷の句の特徴を利根川の流れにたとえる一節がある。すこし長いが、すべて引用する。

私は句集から眼をはなして利根の江流をながめつゝ、著者の句もまたかくの如きものであると考へた。この流は上越の山中に源を発し、幾多の激湍をつくりつゝ、こゝまで来れば実に滔々として両岸の蘆を浸してゐるのであるが、その水の代赭色に濁つてゐるのは源を発する山岳地帯に連日雷雨のあるためであらう。いや、現に私の眼前に於てもはげしい驟雨がふりそゝぎ、水は逆巻きながれてゐる。かうした一時的の激しさは何事に於ても見られるのだ。——而も私はそれを発見した時に大きくうなづいたのであるが、いま驟雨の打ちたゝいてゐる水の面に、堂々たる雲の峰とその間にのぞく青空とが実にさやかに映つてゐるのであつた。これこそ利根の本当の姿である。私がいま譬へてゐる著者の俳句もこれなので、途中に於て激動の相を現はすことはあつても、その本質は静かに、やがて幅と深さとを増しつゝ、終に汪洋たる流になってゆくことだらうと思はれるのである。

譬えのうえでの話に終始しており、かつ修辞も多いため、ごく詳細な意図までは汲みづらいが、「鶴の目」の頃までの波郷を的確に捉えた評であろうと思う。
このあと、実際に「鶴の目」所収の句を抄出して鑑賞が続くのであるが、その末尾、「「鶴の目」を読みつつ」全体の結びでもある部分において、秋櫻子は次のように述べる。

著者は創作に志してゐるから、その俳句がまた小説的傾向を持つことは当然である。たゞかゝる場合、内容の量が俳句の音量を超へると、句はわかりにくいものになるのだが、そのことも著者はよく心得てゐて、みだりに内容の量を超過させない。しかし誰しも好むところには深入りしやすいもので、この句集の中に内容量超過の傾向が絶無であるとはいへないであらう。
すなはち
  冬日宙少女鼓隊に母となる日
などはそれで、馬酔木に発表された当時私にはこの句の意味がわからなかつたのである。そこである時楸邨君にそれを話して見ると、著者の俳句に最もよき理解をもつ楸邨君は、「この句ほどよくわかるものはない」と言って私のために叮嚀に説明してくれたが、それでも私はその説が十分腑に落ちなかつた。要するにこれは、あの利根川を降りかくす驟雨の如く、一望模糊たるところに捨て難き趣を蔵してゐるのかも知れない。

「あの利根川を降りかくす驟雨の如く、一望模糊たるところに捨て難き趣を蔵してゐるのかも知れない」との一文は、発刊にあたっての評に「内容量超過の傾向」を持つ句があると苦言を呈したことを埋め合わせる意図もあるのだろう。「かも知れない」という消極的な表現がそれを端的にあらわしている。
しかし、期せずしてこれは、「難解俳句」への理想的な鑑賞態度を我々に示しうるものではなかろうか。

一句が「難解俳句」と呼ばれる表現を備えたことは、(波郷がそれを明確に意図していたかどうかはこの際別として)波郷の内面に、既存の表現方法では表しきれない何かがあったことを意味する。
たしかに俳句の技巧的な一側面は、時代が進むにつれ、より柔軟に、より多様に発展しているといえよう。しかしだからといって、進歩史観的力学のなかで年々作句されるものの価値が高まっていくかといえば、決してその限りではない。

そうした観点から、いま我々が「難解俳句」を振り返ったときに、「当時にしては突き抜けた表現であったが、現在では月並みな手法である」と理解するだけではやはり不十分であって、「当時にしては突き抜けた表現」が求められた契機を一句に見出そうとすることが、より深くまで鑑賞をすることに繋がるのではないかと思う。

これはひとつの捻くれた見方であるが、あるいは、「この句ほどよくわかるものはない」といった楸邨以上に、楸邨の説明を聞いてなお「十分腑に落ちなかった」とする秋櫻子の方が、この句を十分に味わい尽くしたといえるのかもしれない。……

——最後に、ここまでやや偏った言い方になってしまったが、俳句史を鳥瞰してその発展を整理しようとする仕事の価値を疑う意図が私にないことは強調しておきたい。そうした営為のあることは、俳句界(月刊誌のことではない。これもまた怪しい主語ではあるが)全体において、大きな意義のあることだと思っている。

ただ、すくなくとも読者としてこれらの句を享受するときには、上述のごとき心構えを持つことが豊かな鑑賞につながるのではないか、ということが言いたいのである。
やや大きなことを言うとすれば、それは難解俳句にかぎらず、たとえば新興俳句や前衛俳句の場合においても、そうした新しい表現が俳壇に与えた衝撃を追体験しようとすることで、遠い過去の、もはや紙面上の出来事になってしまった様々な俳句運動を血の通ったものとして知覚し、さらには自らの血肉としていくことを試みたいのである。

加藤柊介


【執筆者プロフィール】
加藤柊介(かとう・しゅうすけ)
1999年生まれ。汀俳句会所属。


2020年10月からスタートした「ハイクノミカタ」。【シーズン1】は、月曜=日下野由季→篠崎央子(2021年7月〜)、火曜=鈴木牛後、水曜=月野ぽぽな、木曜=橋本直、金曜=阪西敦子、土曜=太田うさぎ、日曜=小津夜景さんという布陣で毎日、お届けしてきた記録がこちらです↓



【2025年1月の火曜日☆野城知里のバックナンバー】
>>〔1〕マルシェに売る鹿の腿肉罠猟師 田中槐
>>〔2〕凩のいづこガラスの割るる音 梶井基次郎
>>〔3〕小鼓の血にそまり行く寒稽古 武原はん女

【2025年1月の水曜日☆加藤柊介のバックナンバー】
>>〔5〕降る雪や昭和は虚子となりにけり 高屋窓秋
>>〔6〕朝の氷が夕べの氷老太陽 西東三鬼
>>〔7〕雪で富士か不二にて雪か不尽の雪 上島鬼貫

【2025年1月の木曜日☆木内縉太のバックナンバー】
>>〔5〕達筆の年賀の友の場所知らず 渥美清
>>〔6〕をりをりはこがらしふかき庵かな 日夏耿之介
>>〔7〕たてきりし硝子障子や鮟鱇鍋 小津安二郎

【2024年12月の火曜日☆友定洸太のバックナンバー】
>>〔5〕M列六番冬着の膝を越えて座る 榮猿丸
>>〔6〕去りぎはに鞄に入るる蜜柑二個 千野千佳
>>〔7〕ポインセチア四方に逢ひたき人の居り 黒岩徳将
>>〔8〕寒鯉の淋しらの眼のいま開く 生駒大祐
>>〔9〕立子句集恋の如くに読みはじむ 京極杞陽

【2024年12月の水曜日☆加藤柊介のバックナンバー】
>>〔1〕大いなる手袋忘れありにけり 高濱虚子
>>〔2〕哲学も科学も寒き嚔哉 寺田寅彦
>>〔3〕教師二人牛鍋欲りて熄むことあり 中村草田男
>>〔4〕今年もまた梅見て桜藤紅葉 井原西鶴

【2024年12月の木曜日☆木内縉太のバックナンバー】
>>〔1〕いつの日も 僕のそばには お茶がある 大谷翔平
>>〔2〕冬浪のつくりし岩の貌を踏む 寺山修司
>>〔3〕おもむろに屠者は呪したり雪の風 宮沢賢治
>>〔4〕空にカッターを当てて さよならエモーショナル 山口一郎(サカナクション)

関連記事