山茶花の弁流れ来る坂路かな
横光利一(「横光利一句集」宇佐市民図書館編)
横光利一の説明は必要ないだろう。代表作の「蠅」は長く教科書の定番教材だから、国語の授業で読んだ人も多いのではないだろうか。初読はいつのことだったか忘れたけれど、急展開のオチまでの人間模様の切り取りが鮮やかで、驚いた覚えがある。あのような切れ味のある散文を書く人の俳句とは、と句集を読んでみると、案外にオーソドックスな、と言っては怒られるかも知れないが、芥川龍之介のような機知の働きの切れっぷりはないように思われた。ところで、横光は昭和11年の欧州渡航において同じく欧州に向かう高濱虚子と同船しており、到着までの約1ヶ月、日々の食事を共にし、句会に参加したりしている。そのせいか、「欧洲紀行」を読むと、横光が船上で詠んだ俳句がけっこう頻繁にでてくる。もっとも、欧州到着後はすっかり影を潜めるのだけれど。
さて、掲句は岸田劉生の描いた「冬の崖上の道」のような崖の坂道を、鮮やかな山茶花の花弁が、鮮やかなまま風に吹かれて流れ落ちてくる景を想像する。もしかしたらこの「坂路」は、あの馬車の落っこちた作家の創作世界の中の崖かもしれないけれども。
なお、この「横光利一句集」は、作家没後に刊行すべく、欧州渡航で縁のあった虚子の序文なども整えられていたが、なにゆえか頓挫した。その後全集には収められたものの、単行本として発刊されることはなかった。それを横光と縁のある大分県の宇佐市が、横光の生誕120年にあたる平成30年になって、初めの編集から刊行までおよそ70年の時を経て単行本として刊行したという代物で、一つの句集の刊行にもそのような運命があるものか、と思う。そして、ただ全集から抜いて刷ったというのではなく、全集の句の初出一覧の加筆・修正がなされているというのもすばらしい。
(橋本直)
【執筆者プロフィール】
橋本直(はしもと・すなお)
1967年愛媛県生。「豈」同人。現代俳句協会会員。現在、「楓」(邑久光明園)俳句欄選者。神奈川大学高校生俳句大賞予選選者。合同句集『水の星』(2011年)、『鬼』(2016年)いずれも私家版。第一句集『符籙』(左右社、2020年)。共著『諸注評釈 新芭蕉俳句大成』(明治書院、2014年)、『新興俳句アンソロジー 何が新しかったのか』(ふらんす堂、2018年)他。