夏の風子の手吊環にとどきたる
大井雅人
今回は、私の師の師にあたる大井雅人に触れたい。
前回の記事でも書いた通り、私の所属する「とちの木」は、雅人の主宰した「柚」の後身だ。私自身は雅人の逝去後に「とちの木」に入ったため直接の面識は無いのだが、「とちの木」主宰の川崎雅子からその話をよくうかがっている。
まずは略歴から話すと、大井雅人は昭和七年山梨県北巨摩郡龍岡村(現在、韮崎市龍岡町)の本照寺に生まれた。十代のころから「雲母」に投句をし、昭和三十六年二十九歳のときに「雲母」同人に、また同三十九年三十二歳のときからは編集を務めている。
本業は日本銀行員であり、はじめは甲府支店勤務であったが転勤は多く、昭和五十七年には神戸支店に配属となる。そこから「雲母」の神戸句会に参加。私の師の川崎雅子との出会いはこのときであった。
そして、平成四年四月には「柚」を創刊する。これは「雲母」終刊の四か月前のことであるが、あくまで偶然的なタイミングのことであり、「雲母」の行く末を知っていた上でその後継誌を作るといった目論見をもったものではなかったそうだ。しかし、少なからず周囲から誤解され、反感を買った向きもあったという。
主宰誌創刊については、日銀定年退職の頃の平成二年に決意をしたそうだが、長らくその意を師・飯田龍太に伝えることができていなかったという。平成三年「雲母」のある日の編集会議のとき、雅人がようやくその思いを伝えると、龍太は黙って席を立ち編集室を出て行ったそうだ。しばらくして戻ってきた龍太の手には「柚」と書いた半紙。こうして、龍太の祝福の念のこもった認可のもとで、雅人の結社は生まれた。
雅人はとにかく龍太を敬愛してやまなかったようだ。川崎雅子のエッセイ集『玉手箱から』には、雅人が龍太の名を口にするたびに顔を赤くしていたという回想がある(先述の「柚」誕生についてのいきさつも同書から)。また、龍太も龍太で、雅人を弟子としてかわいがっていたところがあったようだ。同書には、龍太が雅人のために風呂を沸かしてあげていたというエピソードも書かれている。また、雅人の第一句集『龍岡村』に龍太が寄せている跋の中では、龍太は次のように雅人の人柄の佳さを称えつつ、雅人の言葉の帯びる独自の温かみを褒めている。
雅人の作品には、比較的友とか父とか妻とかいった言葉が多く入る特徴がある。このことに関する限り、一般的に言えば、賛成し難いことだろう。(中略)無意識のうちに観念に甘えた感傷の脆さが出る。(中略)
しかし、雅人の作には、奥深い彼の善意が流れているため、彼らしいオリジナリティを持つ。感傷の湿りがすくない。言ってみれば、夕ぐれの岩肌に掌を触れたような感触、乾いた岩肌の奥から、生きた肌のように、ほのぼのと陽のぬくみが伝って来る。こういう善意は、雅人の全く生得のもののようだ。
掲句は、まさにここで龍太が称えているタイプの句であろう。昭和四十七年の作。自解によると、長男が小学五年生のとき、電車内の吊り輪に手がとどいたときの句で、「つま先立ちで、背伸びした、その一瞬のわが子の姿」(『俳句の本 Ⅱ 俳句の実践』、筑摩書房)を詠んだのだそうだ。
雅人の句は他に〈雪に向き白瞑目の障子の家〉〈暮れてゆく凡な春山己に似て〉〈雲の間の深みて青き唐辛子〉〈消ゆることなき階段の灯も秋夜〉といった、まさに龍太門らしい硬質で重厚感のある作が多くみられるが、掲句のようないたって平明で軽快な句もある。
なお、上記の龍太による跋には、後続に少しおもしろい話が載っているので紹介させてほしい。あるとき、雅人が龍太に、とある妙齢の、美しいながらも負けず嫌いな女性のことを話し出したという。その女性は、同僚男性との議論の末に、自分が誤っていた場合は自分がスカート姿のままで逆立ちをすることを賭けたという。それを聞いて龍太は、「話をきいただけで、私は生唾をのんだ。心臓がごっとんごっとんと高鳴ってしまった」そうだ。しかし、「そのてんまつを語る雅人の顔には、好色の翳が全く無」かったそうで、男としての下心を全く持たず、ただ純粋にその女性の気概に愉快を感じておもしろそうに語る雅人の様子に龍太は驚き、感心したのだそうである。
このエピソードは雅人の高潔な人柄というよりも、龍太の方の精神の細やかさをより示すのではないかとは思うが、いずれにしても雅人に対する龍太のまなざしをうかがわせるものである。
もちろん、師である龍太ばかりでなく、雅人の人柄は周りの人々を惹きつけ、愛させるという特長があったのではないかと思う。俗に言う「愛されキャラ」である。実際、川崎雅子はよく雅人のことを「かわいい人だった」と話すのだ。
「柚」でのある吟行の折、ある店の前にあった信楽焼のたぬきの置物に同人たちが目を留めたそうだ。「先生、こんなところにいたんですか」と、戯れでそのたぬきに話しかける。それはもちろん、雅人本人の知らないところでなされた陰の誹謗ではない。雅人が目の前にいるのだ。しかも、その戯れに雅人自ら乗ってその場を沸かせたのだという。そういう愉快な人なのだ。
ただ、雅子は、そんな雅人の愉快さの中にはどこか悲しみを感じさせるところもあったと私に話したことがある。
人偲ぶとは語ること夏木立 雅人
こんな作もある。昭和六十一年の句、第四句集『神田』所収。
(山川太史)
【執筆者プロフィール】
山川太史(やまかわ・たいし)
「とちの木」「いぶき」会員。現代俳句協会所属。
X: @tane_kokugo
note:https://note.com/yamakawataishi
【2025年7月のハイクノミカタ】
〔7月1日〕どこまでもこの世なりけり舟遊び 川崎雅子
〔7月2日〕全員サングラス全員初対面 西生ゆかり
〔7月3日〕合歓の花ゆふぐれ僕が僕を泣かす 若林哲哉
〔7月4日〕明日のなきかに短夜を使ひけり 田畑美穂女
〔7月5日〕はらはらと水ふり落とし滝聳ゆ 桐山太志
〔7月6日〕あじさいの枯れとひとつにし秋へと入る 平田修
〔7月7日〕遠縁のをんなのやうな草いきれ 長谷川双魚
【2025年6月のハイクノミカタ】
〔6月3日〕汽水域ゆふなぎに私語ゆづりあひ 楠本奇蹄
〔6月4日〕香水の中よりとどめさす言葉 檜紀代
〔6月5日〕蛇は全長以外なにももたない 中内火星
〔6月6日〕白衣より夕顔の花なほ白し 小松月尚
〔6月7日〕かきつばた日本語は舌なまけゐる 角谷昌子
〔6月8日〕螢火へ言わんとしたら湿って何も出なかった 平田修
〔6月9日〕水飯や黙つて惚れてゐるがよき 吉田汀史
〔6月10日〕銀紙をめくる長女の夏野がある 楠本奇蹄
〔6月11日〕触れあって無傷でいたいさくらんぼ 田邊香代子
〔6月12日〕檸檬温室夜も輝いて地中海 青木ともじ
〔6月13日〕滅却をする心頭のあり涼し 後藤比奈夫
〔6月14日〕夏の暮タイムマシンのあれば乗る 南十二国
〔6月15日〕あじさいの水の頭を出し闇になる私 平田修
〔6月16日〕水母うく微笑はつかのまのもの 柚木紀子
〔6月17日〕混ぜて扇いで酢飯かがやく夏はじめ 越智友亮
〔6月18日〕動くたび干梅匂う夜の家 鈴木六林男
〔6月19日〕ゆがんでゆく母語 手にとるものを、花を、だっけ おおにしなお
〔6月20日〕暑き日のたゞ五分間十分間 高野素十
〔6月21日〕菖蒲園こんな地図でも辿り着き 西村麒麟
〔6月22日〕葉の中に混ぜてもらって点ってる 平田修
〔6月24日〕レッツカラオケ句会
〔6月25日〕ソーダ水いつでも恥ずかしいブルー 池田澄子
〔6月26日〕肉として何度も夏至を繰り返す 上野葉月
〔6月27日〕夏めくや海へ向く窓うち開き 成瀬正俊
〔6月28日〕夏蝶や覆ひ被さる木々を抜け 潮見悠
〔6月29日〕夕日へとふいとかけ出す青虫でいたり 平田修
〔6月30日〕なし
【2025年5月のハイクノミカタ】
〔5月1日〕天国は歴史ある国しやぼんだま 島田道峻
〔5月2日〕生きてゐて互いに笑ふ涼しさよ 橋爪巨籟
〔5月3日〕ふらここの音の錆びつく夕まぐれ 倉持梨恵
〔5月4日〕春の山からしあわせと今何か言った様だ 平田修
〔5月5日〕いじめると陽炎となる妹よ 仁平勝
〔5月6日〕薄つぺらい虹だ子供をさらふには 土井探花
〔5月7日〕日本の苺ショートを恋しかる 長嶋有
〔5月8日〕おやすみ
〔5月9日〕みじかくて耳にはさみて洗ひ髪 下田實花
〔5月10日〕熔岩の大きく割れて草涼し 中村雅樹
〔5月11日〕逃げの悲しみおぼえ梅くもらせる 平田修
〔5月12日〕死がふたりを分かつまで剝くレタスかな 西原天気
〔5月13日〕姥捨つるたびに螢の指得るも 田中目八
〔5月14日〕青梅の最も青き時の旅 細見綾子
〔5月15日〕萬緑や死は一弾を以て足る 上田五千石
〔5月16日〕彼のことを聞いてみたくて目を薔薇に 今井千鶴子
〔5月17日〕飛び来たり翅をたゝめば紅娘 車谷長吉
〔5月18日〕夏の月あの貧乏人どうしてるかな 平田修
〔5月19日〕土星の輪涼しく見えて婚約す 堀口星眠
〔5月20日〕汗疹とは治せる病平城京 井口可奈
〔5月21日〕帰省せりシチューで米を食ふ家に 山本たくみ
〔5月22日〕胸指して此処と言ひけり青嵐 藤井あかり
〔5月23日〕やす扇ばり/\開きあふぎけり 高濱虚子
〔5月24日〕仔馬にも少し荷をつけ時鳥 橋本鶏二
〔5月25日〕海豚の子上陸すな〜パンツないぞ 小林健一郎
〔5月26日〕籐椅子飴色何々婚に関係なし 鈴木榮子
〔5月27日〕ソフトクリーム一緒に死んでくれますやうに 垂水文弥
〔5月28日〕蝶よ旅は車体を擦つてもつづく 大塚凱
〔5月29日〕ひるがほや死はただ真白な未来 奥坂まや
〔5月30日〕人生の今を華とし風薫る 深見けん二