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あっ、ビデオになってた、って君の声の短い動画だ、海の 千種創一

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あっ、ビデオになってた、って君の声の短い動画だ、海の

千種創一

携帯にカメラが付いてから、昔より簡単かつ気軽に写真や動画が撮れるようになった。突発的に事件・事故が起こった時、すぐに人だかりができることは昔からあったことだけれど、今やその人だかりはカメラを構えるようになった。目の前で起こっていることでも、カメラを隔てることで、不思議とこちら側とそちら側という関係性が出来てしまう。現場にいても冷めている感じ。そんなことも「生きていたんだよな」(あいみょん・2016)とか、「夕焼や誰かの悲哀さへも写メ」(金城涼太・2017、第十七回俳句甲子園入選作品)とか、もうすでに創作物の想像力の内にあるようだ。
撮ることのハードルが下がったことで、撮る目的が明確でなくとも、なんとなく反射的にカメラを向けてしまうという人も増えたのではないだろうか。撮る目的がそれほど明確でなくても、なぜ撮ってしまうのだろう。単にカメラを反射的に構えることが習慣化しているのだとしたら、主体らしい振る舞いが、実のところカメラによって行わされているようで興味深い。

写真や動画というものをあらためて考えてみると(まあ、そんなことを考えること自体が滑稽に映るかもしれないが)、瞬間を切り取ってそれを繰り返し観ることが出来る、というのは単に機能的に便利というだけではない結果を生み出したように思う。ともすれば、写真や動画に収められた瞬間をあらためて眺めるという行為は、もう戻ることのない瞬間を振り返るということであって、写真の内容によりはするけれど、それ自体がいくらかナイーブでセンチメタルな行為なのかもしれない。

イルカがとぶイルカがおちる何も言ってないのにきみが「ん?」と振り向く 初谷むい
電話口でおっ、て言って前みたいにおっ、って言って言って言ってよ 東直子

「俳句は写真、短歌は動画」という喩えはそれがルールや真理というよりも、定型の情報量の目安として、ある程度言い得た表現に思う。ここに挙げた二首も冒頭の歌の「あっ」と同様に、「ん?」とか「おっ」とか、瞬間における断片的な他者の肉声が書かれていて、またそれが一首の抒情とも関わっている。俳句で「一瞬を切り取る」と言ったときに、まず思い浮かべられそうな「客観写生」という書き方とは、対照的な一瞬の書かれ方である。

「瞬間を切り取る」といった類の文言は、よく俳句雑誌の特集で見かけるものだ。特集に寄せられる多くは、写生についての例句鑑賞や実作のノウハウ的なものであり、要するに「瞬間を切り取る」ために一句をどのように語ればよいのか、あるいは為せばよいのかという方法論が専らであって、「瞬間を切り取る」ことがどのような働きをするのかというようなラディカルな論はあまり見られない。それが紙幅の都合によるものなのか、読者からの需要がないのか、あるいは「写生」は俳句において欠かすことが出来ない根源的な要素であると学んできて、それを真に「伝統」と思い込んで、俳句の〝価値〟と「写生」とは不可分、むしろ写生の徹し具合が一句の出来だと盲信して来た指導的な立ち位置の俳人が、「写生」の技術の習得に努めてきた自身の、いわば自らの文化資本が脅かされる可能性を僅かにでも恐れて根源的な議論をあえて避けているのかどうなのか、よくは分からない。最後の理由はヘンテコな陰謀論を吹いてみただけだから、きっと現実とは違っているだろうけれど、ただ、もし二つ目が理由だったとしたら、これが最も痛ましい事態だろう。

逸れて来たので、話を少し戻そう。
写真や動画がそうであるように、「瞬間を切り取る」句も、その「瞬間」をその時の文脈から切り離したものであり、その「切り離した瞬間」を後になって反復的に鑑賞することができるようなものだ。
写真の場合、まさにそのような働きをもってオリエンタリズムを巡る欲望の肥大化を手伝った。ドキュメンタリー映画「Cannibal Tours」(https://youtu.be/sVjQcTfHrwI)(デニスオルーク・1988年)には、西洋諸国の人々によるパプアニューギニア観光の様子が観てとれるが、そこに映っている観光客達は一様にカメラを首からぶら下げている。彼らは、かつて食人が行われていた村を訪れ(もちろん今はそのような行為は行われていないし、観光客もそれを承知している)、現地の人々と記念撮影をし、販売されている土産物を値切ったりしながら買って帰る。人喰いを行った「人種」を一眼見て、またその様子をカメラに収め、証拠品の様に彼らの物品を自国に持ち帰る。資本主義の内側で、かくも前近代的なイメージに胸を膨らませながら当地を闊歩するレディース&ジェントルマンは、とてつもなく滑稽であるし、撮る側と撮られる側という立ち位置の関係に安住しながらも、人喰いを行った「人種」やその村を覗き見したいという心持ちでワクワクしているという、この矛盾する姿もまた特別滑稽である。こうやって撮られた写真は、西洋諸国に持ち帰られて、彼らの西洋の日常の文脈の中に置かれ、鑑賞される。写真の中の非日常ー当地の文化や風習といった文脈から切り離されることによって、風変りかつ奇妙なものに見えるそれーを楽しむ。

このような写真とそう遠くないものとして、篠原鳳作の「正月も常のはだしや琉球女」や「回礼も跣足のままや琉球女」、「琉球のいらかは赤し椰子の花」といった諸作がある。そういうふうな実際の景があって、それに対する「発見」であるわけだから、あくまで事実を述べたに過ぎないというふうにも言えよう。だが、「客観」的に対象を切り取ろうとする眼差し自体にも「主観」は働いているのであって、文化的な差異を積極的に「発見」しにかかっているこれらの句が、まさにそのような眼差し自体の「主観」的なあり様を明け透けに告白している。この他、鳳作の諸作には南洋幻想の焼き直しらしいものが見られる。「写生」というものが、あらかじめ完成している「風景」(認識論的な布置)の上でなされている。柄谷行人の『日本近代文学の起源』(講談社・1980)をあらためて引用し提示するまでもない。今日、「客観写生」という語を何の衒いもなく発して批評の体を取るのは難しかろう。

長い話になったが、この歌を読むことに戻りたい。
この動画は間違って撮られたもので、はじめから目的があって撮られたものではない。偶然の、残滓に過ぎないデータである。
この歌に提示される情報の順序は、例えば「海の映っている短い動画に『あっ、ビデオになってた』という君の声が入っていた」というような説明文と比べると、変に整い過ぎていない書かれ方のように思う。そういう点で、ある意味自然な感じがして、正直に認識した順序で書かれたような印象を受ける。図らずも記録されてしまった瞬間という感じが、そういう書かれ方からも伺える。親しそうな誰かの、不意が故の素の振る舞いが思わされる。
動画の具体的な画の情報はといえば、「君の声」はあくまで声であるから「君」自体がそこに映っていないかもしれないので、つまるところ最後に置かれた「海の」くらいしか断定的なそれはない。だけれど、動画の映りの具合は不思議と思い浮かぶ。間違っていたことに気がついた「君」が、動画を止める時の海のブレ、そういう画の荒さが思わされる。「君」の声や「短い動画」という情が、動画の映りの具合にも作用している。
二つの読点は、もちろん声の情報に関連して働いているのだけれど、なかはられいこの「ビル、がく、ずれて、ゆくな、ん、てきれ、いき、れの過剰に配された読点の働きとそう遠くないかたちで、何か、動画の途切れ途切れな荒い映りの具合をも思わせるようだ。

(安里琉太)


【執筆者プロフィール】
安里琉太(あさと・りゅうた)
1994年沖縄県生まれ。「銀化」「群青」「」同人。句集に『式日』(左右社・2020年)。 同書により、第44回俳人協会新人賞



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