月天心夜空を軽くしてをりぬ
涌羅由美
秋の夜、空を見上げると、月がまっすぐ頭上に浮かんでいる。
「天心」とは、空の真ん中、真上にあること。
月が天心にあるとき、世界がふと静まり返るような感覚になることがあります。
この句には、事実の描写よりも、心の中に生まれた“重さからの解放”のような感情の変化が詠まれています。
「夜空を軽くしてをりぬ」――とは、どういうことか。
空の重さとは、本来、目に見えるものではありませんが、私たちは時に「空が重い」と感じることがあります。
それは、雲が垂れ込めている時だけでなく、心の中に言葉にしづらい思いを抱えているときにも、ふと感じてしまう「重さ」ではないでしょうか。
けれど、この夜は違った。
月がまっすぐ天にあり、何も傾かない時間の中で、その「重さ」がふっとほどけたような気がした。
だから「夜空を軽くしてをりぬ」なのです。
この句は、主語を主張していません。だからこそ、読者である私は、自然とこの句に自分の心を重ねたくなりました。
なぜならこの「軽さ」は、何かを手放したあとに訪れる、深く静かな体感だからです。
もしかすると、作者の心には、句には書かれなかった「重さ」が以前からあったのかもしれません。
それを直接描くのではなく、景色の変化として詠むことで、読者それぞれの「重さ」をも、そっと受け止めてくれる句になっています。
感情は、言葉にすればするほど、説明になってしまいます。
俳句は景を借りて、それを手放すことができます。
あとは読む人の心の中で、形を変えていきます。
その変化こそが、俳句の余韻だと思います。
(菅谷糸)
【執筆者プロフィール】
菅谷 糸(すがや・いと)
1977年生まれ。東京都在住。「ホトトギス」所属。日本伝統俳句協会会員。
【菅谷糸のバックナンバー】
>>〔1〕ありのみの一糸まとはぬ甘さかな 松村史基
>>〔2〕目の合へば笑み返しけり秋の蛇 笹尾清一路