秋櫻子の足あと
【第5回】(全12回)
谷岡健彦
(「銀漢」同人)
10年前の3月11日、地震後の避難の指示が遅れたために、校内にいた児童の大半が津波の犠牲になった小学校がある。宮城県石巻市の大川小学校のことだ。その後、近隣の小学校に統合され廃校となったのだが、現地では校舎をどうするかが議論になったと聞く。見るたびにつらい気持ちになるからという理由で、校舎の解体を望む遺族もいれば、亡くなった友だちといっしょに過ごした思い出の場所を大切に保存してほしいと訴える卒業生もいたらしい。どちらの主張も切実で説得力があり、容易には判断が下せない問題だ。5年間かけて検討を重ねた後、石巻市は、校舎を見たくない人への配慮もしつつ、大川小学校を震災遺構として保存すると決めた。
原子爆弾の爆心地にあった建物についても、かつて同様の議論が起こり、広島と長崎で対照的な決断が下されている。かろうじて全壊を免れた広島県産業報奨館が、そのまま原爆ドームとして保存されたのに対して、長崎の浦上天主堂の遺構は、建て直しのために撤去された。ただ、外壁の一部を残して倒壊した浦上天主堂の再建前の姿は、当時の写真のほか、田中千禾夫の戯曲『マリアの首』などの文学作品を通して、いまでも偲ぶことができる。次に掲げる秋櫻子の句も、そうした作品のひとつだ。
麦秋の中なるが悲し聖廃墟
第十一句集『残鐘』に収められている1952年作の句だ。秋櫻子の年譜を見ると、1952年のところには「この年から、医師としての仕事をほとんどはなれ、俳句に専心出来るようになった」と記されている。前年に崩御された貞明皇后の一年祭が済んだのを機に宮内省侍医の役を退き、横浜の乳児保護協会での診察も辞めてしまったのである。医業に就いていたときには不可能だった長旅にも出られるようになった。5月、秋櫻子はしづ子夫人を連れて、13日間の周遊に旅立つ。九州から瀬戸内を経て南紀にまで足を延ばすという盛り沢山の旅程だ。この旅の模様をまとめた紀行文「軽衣旅情日記」の冒頭に、秋櫻子は次のような一文を書きつけている。「どうしても今度は百句以上詠んで帰らぬと具合のわるいことになった」。
なかでも、旅に出る前から、秋櫻子がぜひとも句に詠んでおかねばならないと思っていたのが浦上天主堂である。掲句に付した自解によれば、ある展覧会で、外壁だけが立つ天主堂の被爆後の写真を見て、鮮烈な印象が胸に刻まれたそうだ。このとき、すでに「聖廃墟」という言葉が頭に浮かんだらしい。その後、現地に足を運んで目にした光景を、秋櫻子は自解にこう記す。「廃墟は麦秋の畑にとりまかれていた。(中略)その代赭にちかい色と、大きく裂け残った煉瓦壁の色とが照応して、凄惨な感じで心に迫って来た」。
ほかに<堂崩れ麦秋の天藍たゞよふ><残る壁裂けて蒲公英の絮飛べる><天子像くだけて初夏の蝶群れをり><鐘楼落ち麦秋に鐘を残しける>と、秋櫻子は浦上天主堂で掲句を含めて5句を吟じている。句集の題名となった句も含まれていることが示すように、この旅で詠まれた全127句の白眉をなす5句と言ってよいだろう。作句の際によほど力がこもったのか、すべて字余りを起こしているのが興味深い。
正直なところ、「聖廃墟」の句は、中七の字余りのためにわたしはいまひとつ好きになれずにいた。「中なるが」は説明的に聞こえるし、調べも悪い。「悲し」と主観がストレートに表出されている点にも引っかかりを感じる。不遜であることは承知しつつも、別の詠み方はないものかと考えてみたこともあった。しかし、いまでは、この字余りの措辞はやはり動かせないと思うようになっている。どう手を入れても原句におよばないとわかったためだが、内田洋一の『風の天主堂』(日本経済新聞出版)を読んだことも大きい。
内田は日本経済新聞の文化部の記者で、『風の天主堂』は、彼が長崎の離島に点在する天主堂を取材したときに書きとめた随想集である。中通島の天主堂を訪れたとき、タクシーの運転手は道すがら内田に「港がよいところは仏教徒の集落。山にへばりついて住んでいるのがキリシタンです」と語ったそうだ。幕府の取締りを逃れて離島に移ってきたキリシタンは、平地には先住者がいるため、耕作に適さない山間部に住まざるをえなかった。そうした土地に水田は開けないから、おのずと麦が主たる作物となる。本書に引用されている民俗学者の宮本常一の文章によると、急斜面の段々畑に麦がなびいているさまは、以前は離島のキリシタン集落の多くで見受けられた初夏の風景だったらしい。
もちろん、自解を読むかぎり、このようなキリシタン集落の困窮を秋櫻子が意識していたとは考えにくい。しかし、ときに作者の意図を超えた解釈をしてみるのも、俳句を読む楽しみのひとつではないか。わたしは、麦秋が聖廃墟の凄惨さを際立たせているのは、たんなる色の照応のためだけではないと思う。その昔、麦しか作れない土地へと追いやられたキリシタンの迫害の歴史を麦秋が想起させるために、こうした苦難に耐えてきた敬虔な信者の末裔が理不尽にも原子爆弾によって非業の死を遂げたことへの悲しみが、いっそう痛切に迫ってくるのであろう。実際、原子爆弾の投下を、江戸時代から明治初期にかけて四度にわたって行なわれたキリシタン弾圧(浦上崩れ)の延長上に位置付け、「浦上五番崩れ」という言い方がなされることもある。
掲句が詠まれた浦上天主堂から平和公園へと歩いていくと、途中に同じく『残鐘』に収められている<薔薇の坂にきくは浦上の鐘ならずや>の句碑がある。この句の甘美さには心が惹かれるものの、わたしは秋櫻子自身の「きれいごとすぎてしまった」という評に同意せざるをえない。なにしろ、もう少し歩いたところに立つ碑には、長崎で被爆した自由律俳人、松尾あつゆきの<なにもかもなくした手に四枚の爆死証明>という悲痛な句が刻まれているのだから。
【執筆者プロフィール】
谷岡健彦(たにおか・たけひこ)
1965年生まれ。「銀漢」同人。句集に『若書き』(2014年、本阿弥書店)、著書に『現代イギリス演劇断章』(2014年、カモミール社)がある。
【「秋櫻子の足あと」のバックナンバー】
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>>【第3回】来しかたや馬酔木咲く野の日のひかり
>>【第2回】伊豆の海や紅梅の上に波ながれ
>>【第1回】初日さす松はむさし野にのこる松
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