秋櫻子の足あと【第1回】谷岡健彦

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秋櫻子の足あと
【第1回】

谷岡健彦
(「銀漢」同人)


以前、自分の所属する銀漢俳句会の結社誌に寄稿した文章を、管理者のご厚意でこのサイトに転載いただけることになった。当時、『銀漢』では2013年の高野素十に始まって、2014年は山口誓子、2015年は阿波野青畝といった具合に四Sについてのエッセイが1年間にわたって連載されていた。自分は2016年に水原秋櫻子を担当したのである。

各回、原稿用紙6枚弱の分量で合計12回の連載だから、秋櫻子の句業を時系列に沿って検討してゆくという評伝のような書き方は採らなかった。なにしろ秋櫻子は、88年におよぶ生涯に21冊もの句集を残しているのである。どんなに端折った書き方をしても、きわめて中途半端なところで筆を擱かざるをえなくなるだろう。

そこで、毎回その月にふさわしい一句を取り上げて、じっくり鑑賞することにした。その句が詠まれた現場にも可能なかぎり足を運んだつもりである。まさにエッセイのタイトルどおり、「秋櫻子の足あと」をたどる1年であった。

前置きが長くなった。連載初回の1月号に取り上げたのは、この句である。

  初日さす松はむさし野にのこる松

1939年の作で、同年刊行の第五句集『蘆刈』に収録されている。藤田湘子は、『秋櫻子の秀句』(小沢書店、1997年)のなかで「秋櫻子のベスト10に入れたい作」とまで評しているが、正直なところ、わたし好みの句ではない。中七の字余りのせいで調べが重く、ぎくしゃくしている。ふつうに<武蔵野に残れる松に初日かな>と詠めばよいではないかとさえ思う。にもかかわらず、この句を取り上げたのは、調べを崩してまでも「松」という語をくり返し、荘重に提示された松の後ろに、秋櫻子が理想とした芸術家の横顔が垣間見えるからだ。

この句の松があった場所は、はっきりわかっている。小田急線の祖師ヶ谷大蔵駅から出ている小さな循環バスに10分ほど乗ると、釣鐘池公園に着く。この近辺に、陶芸家の富本憲吉はかつて工房を持っていた。いまはすっかり閑静な住宅街になっていて武蔵野の面影など、どこを探しても見当たらないが、以前は雑木林が広がり、枝ぶりのみごとな赤松がそびえていたらしい。

1939年の正月、秋櫻子はこの松を思い浮かべ、富本憲吉宛の年賀状に掲句を記して送ったところ、数日後、富本から松の文様の飾壺を描いた絵が届いた。絵には次のように始まる富本自作の詩が添えられていたそうだ。

  初日さす松はむさし野にのこる松
  初日うけて武蔵野に残る松写さむと
  五十四歳の白髪を寒風になびかせ
  川沿ひの氷れる道歩み行くなる
  握り得ざる松にぎらむと独り行くなる
  人なき氷る田面とび立つ水鳥ひとつ
  人知らぬ寒風のみち
  われも亦武蔵野に生きのこるものの一つに思はれて
  絵は描かず
  生き残るわれをみつめて帰り来にけり

終わり近くの「われも亦武蔵野に生きのこるものの一つに思はれて」という一行に注意しよう。ふと年賀状に書き添えた「むさし野にのこる松」の句が、秋櫻子にとって特別な重みを帯び始めたのは、この言葉を目にしてからではなかっただろうか。と言うのも、秋櫻子は、分野こそちがうけれども、富本のような創作態度を模範とすべきと考えていたようだからである。

1974 年に求龍堂から、全五巻から成る『水原秋櫻子俳句と随筆集』が出版されているが、『師友懐古』という題のついた第二巻の冒頭に置かれているのは、意外にも富本憲吉の思い出を綴った随筆である。秋櫻子が短歌の指導を受けた窪田空穂は、富本と安井曾太郎に次いで三番目、高浜虚子にいたっては、この巻ではほとんど言及されていない。

『水原秋櫻子俳句と随筆集』(求龍堂、1974年)――著者蔵
富本憲吉が秋櫻子の句を「序句」として詩作したことがわかる

この随筆を読むと、陶芸を芸術の域に高めるべく全力を傾注している富本の姿勢に、秋櫻子が深い共感を寄せているのがよくわかる。いかに轆轤を挽くのが巧みで、いかに文様を描くことに手慣れていても、独創性のある文様を生みだす研究を疎かにしている者の作品は、芸術とは呼べないのではないかと、富本は秋櫻子に語ったそうだ。「文様より文様を作らず」、すなわち古い文様を模して自分の文様としてはいけないというのが、富本の信条であった。独創的な文様を案出するために、まずは周囲の風景を丹念に写生し、それを苦心惨憺して図案化する。富本の創作活動を見て、秋櫻子が自分の作句法と共通するものを感じていたであろうことは想像に難くない――そして、ともすれば習いごとに堕しがちな俳句を、芸術へと引き上げねばならないと鼓舞されていたことも。

秋櫻子が祖師谷の工房を最後に訪れたのは、1945年の5月ごろのことである。富本はすでに妻子を秩父に疎開させていたが、まだ仕事を続けていた。いま絵付をしている銀襴手大皿を焼きあげるまでは、どんなに危険が迫っても工房を離れるつもりはないと富本が口にするのを聞き、秋櫻子は、文字どおり命を賭して作品を完成させようとする芸術家の勇気にいたく心を打たれたようだ。『師友懐古』所収の秋櫻子自身の言葉を引いておこう。「そのときしみじみと芸術家のつよい魂にふれ得た喜びを心に感じた。その魂こそはすなわち燃ゆる火であった。窯中を白熱化する火よりも更にはげしく凄まじい火であった」。彼の詠んだ「むさし野にのこる松」とは、かくも気高い松なのである。

ちなみに、秋櫻子のこの句の碑は、立川市柴崎町にある。作句事情は上に述べたとおりだから、とくに縁のある地ではないのだが、いま武蔵野と言えば、このあたりだろう。80年前に秋櫻子が詠んだ武蔵野はずいぶん都心から遠くなったようだ。


【執筆者プロフィール】
谷岡健彦(たにおか・たけひこ)
1965年生まれ。「銀漢」同人。句集に『若書き』(2014年、本阿弥書店)、著書に『現代イギリス演劇断章』(2014年、カモミール社)がある。



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