松風や俎に置く落霜紅
森澄雄
澄雄をちょこっと齧って、何かいま一つピンと来ていない時分、岡井省二『鑑賞秀句100句選 森澄雄』(牧羊社・1992)を読んで、途端に面白く感じ始めたことを覚えている。
同書では、この句を次のように鑑賞している。
澄雄はうめもどきが好きである。その、紅熟した実の様子が俳味をもっている、どこか艷をもっている、それが好きなのである。梅擬ではない「落霜紅」という文字の視覚性と象徴性に心ひかれているのである。そのうめもどきの一枝を、たまたま俎の上に置いた。ふいに思わぬ詩情が生まれ、その心をしばらくかみしめる。あたかも時に、そうそうと吹き過ぎる松風のさ中であった。このとき落霜紅に、たとえば他の、野菊でも柿の実でもとって代ることはできない。ふとした所作に、おもいがけない晩秋の静けさと鮮やかさと、その上にどこかに祝祭性とエロスの発祥を、澄雄は感じている。早くもここに、後々の、エロスの主題が、はしなくもあらわれていると言えようか」と読んでいる。
鑑賞は「落霜紅」という字の選択について触れ、落霜紅を俎の上に置くというやや特異な場面を具体的にあげながら、その心情を想定し、「落霜紅」の動かなさについても指摘し、澄雄の作風における位置付けまで示している。句単体で読むとき、エロスまで高めなくても良いのではないかとは思うが、とはいえ、ある種の艶やかな雅があることには同感である。「松風」は、松の木に吹く風のことでもあるが、茶の湯で釜の湯の滾る音も意味する。後者の意味だと屋内の景として収まり、後者だと多少の内外の景になる。岡井は前者を採って鑑賞を進めている。
私としては、句中に植物に関わる字が二つもあって重なっている場合、触り合ってうるさく感じることが多いのだが、この句の「松」と「落霜紅」とが、さしてうるさく触り合わないことも好ましく思う点である。
意匠の凝らし方が似た句に「涼しさや花橘を皿の上」(長谷川櫂)がある。「松風や」の句にも、この句と共通するような涼しさをすこし感じるけれど、とはいえ、こうして比べると澄雄の句の艶やかさがひときわ印象される。「涼しさや」の句は「や」の通り、やはり「涼しさ」が特別うたわれている句なのだと思わされる。
実は、同書の句の索引には誤植があって、「秋風や俎に置く落霜紅」という風にこの句が載っている。
これに初めて気がついた時、「秋風や」も一つの手かも知れないと思ったが、しばし考えて「松風や」の方が、なんというか、しつらえた感じに嫌味が無くて良いと思った。
「秋風や」の場合、置かれた落霜紅が殊にもの寂しく思われてくる。蕭然としたそれがもの悲しく、またどこか感傷的に見つめられている感じがする。そのうち、次第に落霜紅が俎に置かれたこと自体の、その出来事性が気になってくる。なぜ俎の上に落霜紅が置かれているのか、誰が置いたのか。しかし、そういう出来事性も「秋風」によって、万物衰退の最中における無意味ながらも美しく儚げな行為として、それなりに事を得てしまう感じがする。「秋風」の美学に回収されてしまって、あまり面白く思えないというのが本音である。
無論、「松風や」にもしつらえた感が無いわけではない。ただ、落霜紅が俎に置かれたこと自体の出来事性や誰かが置いたその行為性に、「秋風」とは違って、特別拘泥する感じがない。そういう意味で嫌味がない。
「松風や」であるから、むしろそっちよりも外の松の方が暗に意識されてくるのだろう。庭があって、そこに松があるのだろうか。松からそう遠くないところに、落霜紅もあるのだろうか。「秋風や」よりも「松風や」の方が、空間へ意識を広げていくように思う。
(安里琉太)
【執筆者プロフィール】
安里琉太(あさと・りゅうた)
1994年沖縄県生まれ。「銀化」「群青」「滸」同人。句集に『式日』(左右社・2020年)。 同書により、第44回俳人協会新人賞。
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