昼ごろより時の感じ既に無くなりて樹立のなかに歩みをとどむ
佐藤佐太郎
「時の感じ」というのが良い。舌足らずというより、言い表したくとも言葉としていまいち何といっていいか迷う感覚を、ぐっと掴み出してきたような凄みがある。
「時の感じ既に無くなりて」→「歩みをとどむ」という展開は、よくわかりすぎるという気がしないでもないけれど、そこで驚かせる歌というより、その後に残る感慨を読ませたい歌なのだろう。「昼ごろより時の感じ既に無くなりて」があって、「樹立のなかに歩みをとどむ」はあんまり主張させず、添えて流したような、力の抜けたような措辞として思った。
冬になると佐太郎が読みたくなる。
「苦しみて生きつつをれば枇杷の花終りて冬の後半となる」や「金の眼をしたる牝猫(めねこ)が曇りつつ寒き昼すぎの畳をあるく」など、このほかにも冬の秀歌がたくさんある。冬の昼の明るさやさびしさが、歌の息づいている感じととてもよく響く。
昼の歌をもう少し挙げるなら、「汽車の車輪の澄みしひびきが思ひがけず昼の事務室にきこえくる時」というのも好きだ。最後の「時」という止め方はどうなのだろう。私としては「きこえ来たれり」とさらっと流す手もありではないかと考えたが、やはり「時」の感じが詠みたかったのだろうか。
夏の昼であれば、「つるし置く塩鱒ありて暑きひる黄のしづくまれに滴るあはれ」というのがある。「あはれ」という感慨よりも、「黄のしづく」の方に体重が乗っている歌に思える。
(安里琉太)
【執筆者プロフィール】
安里琉太(あさと・りゅうた)
1994年沖縄県生まれ。「銀化」「群青」「滸」同人。句集に『式日』(左右社・2020年)。 同書により、第44回俳人協会新人賞。
【安里琉太のバックナンバー】
>>〔2〕魚卵たべ九月些か悔いありぬ 八田木枯
>>〔1〕松風や俎に置く落霜紅 森澄雄
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