麒麟がいる
筑紫磐井(「豈」発行人)
銀漢亭での記憶ではない。私が銀漢亭に行くと必ず西村麒麟がいた。だから西村麒麟の記憶と言うことになる。店主伊藤伊那男はもちろん、近江文代、菊田一平という顔触れもいないではないが、余りじっくりと話をした記憶が浮ばない。もっぱら西村麒麟との話の間をBGMのようにみんなの声が流れて行くのだ。
芝不器男賞を受賞した御中虫と頻繁にメールをする時期があった。その時に、御中虫を一番よく知っている人物として西村麒麟の紹介を受けたのだ。ただよほどたってから、その御中虫と西村麒麟が、実はメールだけのやりとりで、一度もあったことがないということを知った。二人が語っている内容は事実無根らしい。何か危うい関係であった。
西村麒麟と何回かメールのやりとりをしているうち、「磐井さん飲みましょうよ、おごって下さい」。こんなやりとりで、結果、手頃な銀漢亭で会うことになったのだ。西村麒麟はその後幾冊も句集を出したり、受賞をしたが、そのつど銀漢亭を使っていたように思う。だから、冒頭に述べたように、銀漢亭の記憶は西村麒麟の記憶であり、西村麒麟の記憶は銀漢亭の記憶である。
ただその記憶とは、おだをまいている酔漢ふたりである。そのとなりに、どういう訳か必ずさめた眼で微笑んでいるあっちゃんがいる。
「磐井さん、僕は不幸なんです。句集を出したけれど結社では特集もしてくれていないんです」。
聞けば先生の了解も選も受けず勝手に自家製で(自費出版というと聞こえがいいが聞いてみるとどう見ても廉価な自家製であった)出したと言うから、先生としては当然だろうと思った。そこで私のBLOGで延べ100回近くに及ぶ特集を組んでみたが、結社で書いてくれる人がいるかと気になった。
「大丈夫です。こっそりとなら書いてくれます。」
こっそりねえ。
「磐井さん、僕は不幸なんです。初めて出版社の賞を取ったんですが先生はお祝いもしてくれないんです。」
まあ、先の事情から言って分からなくはない。お祝い代わりに、私におごらせているのじゃないか。
「(3つめの受賞後)磐井さん、お金出して本を作ってもしょうがないですね。僕なんか一番安上がりで沢山賞を取っているから。」
そんなことを言うと、余り幸福すぎてみんなに嫌われるよ。
「磐井さんが企画した、『新撰21』には声もかからなかったです。次の『超新撰21』もなかった。そのあと『俳コレ』。そのつど置いてきぼりを食って行く感じで鬱屈して行くんです。選集に選ばれた人達はいいでしょうが、漏れた人たちは可哀想ですよ。だから何クソといろんな賞に応募するんです。」
そうか、いいことをしたつもりだったけれど、それと同じぐらい罪作りなこともしたのかもしれない。澤田和弥もなくなったけれど、そんな世代の雰囲気はあったかもしれない。それで罪滅ぼしに西村麒麟におごっているとすれば、まあしょうがないか。
「磐井さん、何かというと僕の名前を書いているから、僕のこと好きなんでしょう。」
あなたの世代のひとを余り知らないから西村麒麟という名前を使わせてもらっているだけなんだけど。どちらかといえば、健気に尽しているあっちゃんのことの方が好きなんだけど。
「角川賞をとったけれど、表彰式に先生が来てくれないかもしれないので、磐井さん、代わりできてくれませんか。」
俳句の先生じゃないな。故郷の親代わりという意味だろ。
何かつまらないことを書いているようだが、こんなことを喋っている雰囲気が銀漢亭なのである。銀漢亭は今はもうない。西村麒麟とこんなしょうもない話をする場も消えてしまったのである。
【執筆者プロフィール】
筑紫磐井(つくし・ばんせい)
1950年生まれ。「豈」発行人。句集に『筑紫磐井集』(邑書林〈セレクション俳人〉、2003年)など。評論集に『飯田龍太の彼方へ』(深夜叢書社、1994年)、『伝統の探求〈題詠文学論〉 俳句で季語はなぜ必要か』(ウエップ、2012年)、『戦後俳句の探求〈辞の詩学と詞の詩学〉―兜太・龍太・狩行の彼方へ』(ウエップ、2015年)など。編著に『虚子は戦後俳句をどう読んだか―埋もれていた「玉藻」研究座談会』(深夜叢書社、2018年)。