神保町に銀漢亭があったころ【第110回】今井康之

伊藤医院の息子 ――伊那男

今井康之(岩波書店社友)

伊藤医院の息子が神田神保町という所で居酒屋をやっているようだ、顔を出してみてくれ。故郷伊那谷から、このニュースが飛び込んできたのは5、6年前のことだ。

駒ヶ根市の私の生家から、ものの100メートル足らずのところに伊藤医院がある。

この土地はその昔、代々素封家の芦部さんのものだった。大きな敷地は四方が高い塀で囲まれていて中の様子は窺う余地もなかった。敗戦直後、この屋敷の玄関先にあたる空き地に医院ができた。風聞では伊藤家は芦部の親戚筋とのことであった。

ここの当主は当時芦部啓太郎という著名な教育者である。やがて彼は初代駒ヶ根市長になり、南アルプスの主峰木曽駒ヶ岳にロープウェイを架けて、誰にでも楽しませる山にした。

伊藤医院がこの地に開業して呉れたので、ここらの住民は気安く玄関を潜った。先生の専門は耳鼻咽喉科だったかもしれない。住民はそんなことにお構いなく、やれ風邪を引いただの、腰が痛いだのといって、老若男女が先生に診てもらった。

財布に小銭しかないのに出かけて行って、いつでもいいよと言われたとかの評判が立った。私の家は大家族だった。近所にこの医院ができたことを喜び、誰も彼もがお世話様になった。「不幸」にも私は診てもらうことがなかったので先生も奥様も知らない。今となっては悔やまれる。

伊那男が毎日新聞の取材に答えて、ウチの親父は赤旗を読んでいて、それに包んだ弁当箱を学校に持って行った、と語っている。
この情景は大切だ。毎朝弁当を作ったのも、包んだのも母親であろう。
当時(今でも)この危険新聞は人目を憚って取っていたものだ。それなのに伊藤医院の夫婦は揃ってそんな事に無頓着だったのだ。「バカ」だったのではない、悪い事をしている訳では無いから、こそこそする必要が無かったと、考えるのが自然だ。
まことに堂々とした「赤髭」であった事を物語っている。

同じ取材で、伊那男は学生時代安田講堂が陥ちたのを喜び先輩と乾杯したと語り、自分を心情右翼だと言っている。
「心情」が添えられているから赦せるが、それがなければ伊那男はバカだ。息子のくせに、親の生き方の真髄が理解できていないとみられるからだ。ケチな政治信条を言っているのでは無い。

15年程前から毎月1回古巣の神保町に出かけて、世を憂いて泡を飛ばしてきた。お節介な事である。そんなある日、所番地を手掛かりに銀漢亭を開けた。奥の方から客を掻き分けて、ポロシャツ姿の伊那男さんが出てきた。

相好を崩して喜んでくれた。『銀漢』を下さったが、本は買って読むものです!と格好いい事を云って、千円札を受け取ってもらった。

次に行った時も、入り口に沿ったカウンターでサケを出し、自分でもかなり飲んでいる女性がいた。ちらっと見ていたら、客の誰かが伊那男さんの奥様の写真はここに置いてありますよ、と云ってくれた。ちょっと探られたような気がした。この人が『天為』の小石さんで「木曜日の人」であると伊那男さんから聞いた。

伊那男さんの奥さんの写真を何回も見た。事情を聞いた。気の毒な事この上ない。
伊那男さんと親しくなってからの事である。
伊那男さんは面食いなんだ、奥さんが面食いでなくてよかったね、と軽口を叩いた。伊那男は乗ってこなかった。

  妻に会ふためのまなぶた日向ぼこ

伊那男さんは、いつでも好きな時に奥さんと会っているのだ。幸せである。

伊那男さんの風貌をよくよく見ると、味わい深く何とも親しみ易いのである。父上と比べられないのは残念だが、きっと伊那男は、欲無く人に尽くす赤髭先生のお顔に似ているに違いない。

伊那男の生家のごく近くを、中央線辰野駅から伊那谷を南下して豊橋まで通じるJR飯田線がある。踏切を超えて下ると直ぐに、南アルプスと中央アルプスの壮大な全貌が見える。二つのアルプスが眺望できる日本唯一の場所である。伊那男はこれを見て育ったのだ。

少年時代、伊那男はこの飯田線の枕木の上を2キロ程歩いて、中央アルプスから流れ出る大田切川まで行って、橋脚に溜まった温い水を浴び、本流の急流を抜き手で渡り、冷えた体を巨石に腹這いになって温めた。
この川は下ると直ぐに天竜川に流れ込む。勿論ここも伊那男の領域であったに違いない。

伊那男は隣の市にある高校に行った。県立伊那北高校である。旧制中学校時代から県下の名門である。私の町からこの学校に入れるのは、とびきり優秀な者か金持ち、教師、医者の子弟であった。電車に乗り遅れまいと、伊那男は桜の古木がぎっしり並んだ桜木町通りを走ったに違いない。

私と伊那男は一緒の小学校、中学校に通ったことになる。1クラス50人、1学年に10クラスもあったから、小学校3000人、中学校1500人のマンモス学校だった。運動会などは壮観。親たちが早くから校庭にご座を広げ、重箱を持ち込んだ。

こんなことを書き連ねたのは、伊那男の俳句はこのような自然と人間環境を想う精神風土の中から熟成されると思うからだ。銀漢亭主人伊那男の手料理もまた同じ土壌から生み出された物だ。

芦部信喜(よしのぶ)(1923〜99)は啓太郎の長男である。亡くなって20年にもなるが、今でも日本国憲法学の第1人者である。現行憲法に如何なる立場をとろうとも、わが国では「芦部憲法」を踏まえなくてはならない。

これもまた伊那男の環境の一つである。伊那男の戸籍名は正徳であると、つい最近本人から聞いた。

伊那男が生まれたのは1949年、私は中学2年生。農事は二つ上の兄と私に丸投げされていた。彼の家の前を通り飯田線を超えて300メートル下。「団子の神様」の左右に田畑があった。学校から帰るとカバンを家に放り投げ、田圃に急いだ。夕暮に伊藤医院の前を通って家に帰った。

家に金が無かったから、1951年に中卒で東京に出稼ぎに出た。正徳くんがまだよちよち歩きだった頃である。


【執筆者プロフィール】
今井康之(いまい・やすゆき)
1936(昭和11)年長野県駒ヶ根市生まれ。岩波書店社友。日本ジャーナリスト会議会員。信州岩波講座(須坂、松本) 、出版NPO「本をたのしもう会」(東京)で活動中。



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