俳人・広渡敬雄とゆく全国・俳枕の旅【第35回】英彦山と杉田久女

杉田久女は、明治23(1890)年、鹿児島市生まれ。官吏の父の勤務に伴い、沖縄、台湾を経て東京女子高師付属高等女学校卒。愛知県東部の小原村松名(現豊田市)の代々の素封家の跡取りで、東京美術学校西洋画科卒の杉田宇内と十九歳で結婚。将来著名な画家夫人を夢見るも、夫は、福岡県小倉中学校の美術教師となり、悶々としたなかで、大正5(1916)年二十六歳から次兄赤堀月蟾に俳句の手解きを受け、「ホトトギス」に投句し始め、虚子に師事。万葉調で自我の強い作品で頭角を現し、長谷川かな女、阿部みどり女を知り中村汀女、橋本多佳子を指導した。

英彦山石段(添田町観光協会)

昭和6年には、「日本新名勝俳句」金賞、翌年には、「花衣」創刊主宰(但し5号で廃刊)し、九州で二番目の「ホトトギス」同人として、同七,八年には、雑詠巻頭を得て、常に鬼城、蛇笏、石鼎等と競いあい名声を博した。

生来の情熱家に加え一途で、一田舎教師の妻たるに安んぜず、夫との離婚問題も起きた。隆盛し始めた厨俳句とは次元を異なる作品を生み出す作家魂(山本健吉)が却って誤解を深め、同11年、吉岡禅寺洞、日野草城とともに、突然「ホトトギス」同人を除名され、作品発表も出来ず、失意のまま精神の安定性を失い、昭和21(1946)年1月21日、大宰府の病院で逝去。享年55歳。

英彦山神社(田川広域観光協会)

逝去6年後、長女石昌子の熱意により、「清艶高華」の虚子序文の『杉田久女句集』が刊行された。坂本宮尾は、謎とされる「ホトトギス」同人除名の経緯を、ホトトギスの他の女性俳人(星野立子、中村汀女等)と異質な芸術家傾向で自己顕示欲が強い久女を虚子が忌諱し、虚子一途に必死に句集上梓を熱望するものの煮え切らぬ虚子の対応に、常軌を逸した行動や秋桜子等アンチ虚子や徳富蘇峰らの助力での句集刊行の企てが、その逆鱗に触れたからとする。

そして、久女は厨俳句から脱却し俳句作家の道を意識的に歩んだ先駆者。美しいものを捉える直感力、天性の感性で、「久遠の芸術の神」から愛された幸福な俳人と結論付け、俳句への一途さ、真摯な努力に胸が詰まると述べる。

英彦山神社銅鳥居(添田町)

「妖艶でアカデミックな凛とした句風、男性を凌ぐ偉才は額田王にも肖る」(竹下しづの女)、「〈ノラともならず〉の様な作品が人口に膾炙したのは、久女には、むしろ不幸だった」(飯田龍太)、「作品の底に久女の芸術性と文学性、人間性の美しさが潜んでいる」(石昌子)、「「俳句で可能な限りの広大な空間と時間とを正面から鎮めている」(飯島晴子)濃密で格の大きい芸術美の世界、何物も冒せぬ言語空間の完璧な世界」(宗田安正)、等々の鑑賞がある。

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