松過ぎの一日二日水の如
川崎展宏
一月七日に七草粥を食べると同時に、今日で松の内も終りね、と思うのが関東に住んでいる私の感覚。そして玄関先に飾ってある正月飾りを取り外しに行く。(関西では一月十五日まで松の内)。
松過ぎは、松納め、飾り納めをして門松や注連飾りを取ってからしばらくの間の日数のこと。
松の内ではないとはいえど、まだどこかしらその名残を宿しつつ、といった趣をこの松過ぎという時間には感じる。
でも松の内の一日、一日とそれを過ぎてからの日数では一日の重さが違うのだ。
元日からの三日間は三が日と言って新年の来客や行事があったり、四日からは仕事始めで年始のご挨拶があったりとだいたい七日頃までは日にちに合わせての動きがある。一日、一日がどこか立っているように感じられるが、松過ぎともなるとそのあたりが次第に緩んでくるのだろう。
一日、二日が水の如くに過ぎてゆく、というのは、なるほど巧いことを言うものだ。
気付いたら一日二日経ってしまっていたという松過ぎの感慨が、さらりと過ぎ行く水の早さに託されてうまく出ているように思う。
松過ぎという言葉の持つ静けさが、「水」と響き合って、音も無く過ぎ行く時の流れを感じさせてくれるようだ。
(日下野由季)
【執筆者プロフィール】
日下野由季(ひがの・ゆき)
1977年東京生まれ。「海」編集長。第17回山本健吉評論賞、第42回俳人協会新人賞(第二句集『馥郁』)受賞。著書に句集『祈りの天』、『4週間でつくるはじめてのやさしい俳句練習帖』(監修)、『春夏秋冬を楽しむ俳句歳時記』(監修)。
【セクト・ポクリット管理人より読者のみなさまへ】